シン・エヴァンゲリオン劇場版:||が捧げる祈り【全文ネタバレ】

8年の年月は人間を変える。

新劇場版・序から数えれば13年強、TV版放映開始から起算して実に25年。子供が大人になり、へたをすれば孫をもうけていても不思議のない歳月である。
しかしQのあのラストからの8年にわたる「溜め」は意味合いがまるで異なってくる。

早速の自分語りでいささか恐縮だが、かく言う自分は’19年7月に脳梗塞を発症した。迅速な処置のおかげか幸い後遺症もなく予後を送れてはいるものの、本人的には「シンエヴァ見るまで死んでたまるか」の一念だけを胸にこの1年9ヶ月を送ってきたと言って何ら過言ではない――なにしろ肝心の0706作戦も病院のベッドの上で見ていたのだから。
死とは決して非日常ではなく、日常の道ばたにぱっくりと口を開けているものだった、そんなことを身をもって教えられた次第だ。

だが不運にも結末に辿り着かぬまま病に倒れ、或いは不慮の事故に見舞われ世を去った人も決して少なくはないはずだ。実際自分も改元間もないタイミングで二十年来の友人を一人喪っている。
テレビ版以来の25年間、オリジナルメインキャストの誰一人欠けることなく(増尾昭一という大きな才能を失いはしたものの)今日この日を迎えられたことは奇跡と言うほかない。まずはその奇跡にあずかったことをただ率直に感謝したい。

8年の年月は社会を変える。

Q公開時には既に表面化していた現代社会を取り巻く不寛容さは日増しにその度合いを強め、細分化・先鋭化の一途をたどるSNSで誰もが見たくない情報から目をそらす努力さえ不要のエコーチェンバーに籠もって過ごし、なんとなれば「見たくない情報が存在する」ことそのものを悪と断じて殴り合い罵り合い、未曾有の感染症も手伝って今や人類は心身共に全地球レベルで病んでいる。

そんな現代に向かって『そういう時代や社会に寄り添った肌感覚に敏感(パンフレットp73・鶴巻和哉:談)』で『それなりに社会情勢や、周囲の空気感にも目を向けていて、今、作るべきものが分かって作って(同上)』いる庵野秀明が呈示するエヴァンゲリオンの結末。

8年の年月は庵野秀明をも変える。

不寛容な社会に≪壊≫された庵野秀明。肌感覚に敏感であるから、周囲の空気感に目を向けているから、今作るべきものが分かっているからこそ≪壊≫れた庵野秀明。
そして社会に、伴侶に≪癒≫やされ、社会を、伴侶を、とりわけ自分を≪癒≫やすべく敢えてシン・ゴジラのメガホンを取った庵野秀明。

’14年、東京国際映画祭でアマチュア時代を振り返り「フィルムの最後に『おわり』って出しとけば終わるんだと学んだ」と述懐する庵野がシン・ゴジラで冷温停止したゴジラの佇む東京駅という結末を選んだのは、彼の本当にやるべき仕事が『まだ終わってない。事態の収拾にはまだ程遠い』との忸怩たる思い、もしくは焦燥感も込められていたのではなかろうか。

シン・ゴジラから5年。満を持して庵野が結ぶエヴァの「終劇」を我々は目にした。

それはこの世からこぼれ落ちた命を受け入れ、なお前に進む人間の強さ。
それは人生で今日が一番若いのだ、今日を精一杯生きる、カルペ・ディエムの精神。
休む時間が必要なら必要なだけ休めばよい。心身を休ませ思索を巡らし、立ち上がったらそれを糧にまた進もう。
きっとあなたを必要としている誰かがいるはずだから。

第3村を舞台とするAパートは、転車台を中心とした扇形車庫の風景こそ静岡県・新所原ではあったが、そこに漂う空気感はそのままQ以後≪壊≫れていた庵野の心象の引き写しであった。というのもこの新所原の転車台と似た風景が庵野の郷里である山口県宇部市からほど近いJR山口線・新山口駅にも広がっているのだ

シン・エヴァ(以下「本作」)をふまえ、3.11を経て2012年に公開したQを振り返るに、そこには先に引用した鶴巻が庵野を評して言う「肌感覚の敏感さ」を感得できる描写はなかったと言ってよい。

この理由として自分は『シン・ゴジラという所信表明【ネタバレ多数】』エントリ内でこう弁護した。

「Q」で庵野が災厄の描写を封じたのは「被災者に配慮したから」でもなければ「現実に起こってしまった大災害を目の当たりにして価値観が揺るがされたから」でもない。
「当時の庵野のイマジネーションでは現実に到底太刀打ちできないから」だったのではないだろうか。
庵野の師匠にあたる宮崎駿は「風立ちぬ」で関東大震災の描写に真っ向から立ち向かった。
その「風立ちぬ」の描写は徹底して主人公・二郎が持つ美意識をその重心と設定している。二郎が「美しい」と感じたものしか画面に出てこないと言い換えてもいい。
轟々とわき上がる大火災の真っ黒い煙が意思を持つかのように空を覆い尽くす様に、少なくとも自分は恐怖と同時に「美しさ」を覚えた。
つまりこの辺は庵野信者プラス自分の感覚を信じたいが為の、いわば牽強付会、我田引水である点お断りしておく。
それでも。
庵野は宮崎の「美しさ」の描写と、自分の感覚を信じて勝負できる強さに敗北感にも似た感情を覚えたのではないかと考える。

本作を見終わった今なら断言できる。
これは全くもって見当外れ、庵野秀明を擁護したいが為だけに仕立て上げた、現実認識を著しく欠く侮辱も同然の妄言だった。
世界で一番尊敬する映像作家の援護射撃を気取って背中から撃つような真似をしてしまったことを猛省しここに撤回する(該当エントリにも追記済み)。

では真相はどうだったのか、想像しようと思えばいくらでもできる。現に自分も仮説を持ってはいる。
しかし3.11以後に改稿が為された事実の有無は今となっては消息すら辿れない与太話半分で、公式なコメントが存在しない以上は悪魔の証明にも陥りかねない。そもそも新劇場版3+1部作がこれだけ美しく終結を見た今、詮索してみたところで得する者など誰もいやしない。
ともかく庵野秀明がQのあと≪壊≫れたのはその痛々しいまでの作品作りへの誠実さと現実との板挟み故であろうことに疑いはない。

Qにおいてネルフの日常を、自分自身が守った街を、世界再生の可能性を、そしてカヲルを奪われたシンジは本作でもまだまだ多くのものを奪われ続けた。
だが同時に多くのものを取り返すことができた。その最たるものはトウジ・ケンスケ・ヒカリ・アスカ・アヤナミたちがシンジに投げかけた「優しさ」によるシンジ自身の存在意義であった。

優しさのかたちにも様々ある。
どこまでも赦し、受け入れ、「お前は充分に戦うた」と包み込むトウジやヒカリの優しさ。
少しだけ距離を置き肯定も否定もせず、居場所だけ与えて面倒は見ない、ただ「でもお前の親父は生きてるだろ。家族だ、縁は残る」とまだ選択の余地があることを忠告するケンスケの優しさ。
望むと望まざるとに関わらずエヴァパイロットになった自覚を促し「自分勝手に死ぬことだけは絶対に許さない」と人間なら当たり前に持っているはずの生への執着を再確認させるアスカの優しさ。
何の衒いもなく、ただ無垢に「仲良くなるおまじない」を結ぼうと手を差し伸べるアヤナミの優しさ。
時に厳しく叱ってくれる年長者の優しさ。人類の居場所を必死で確保し続けるヴィレとKREDITの優しさ。土の匂いの優しさ。絵本「オチビサンとやまあらし」が描いているであろうテーマの優しさ。

シンジに父のS-DATプレーヤーを返し、「好きな人と一緒にいたかった」と言い残しアヤナミレイはその悲しすぎる生を終えた。自分が抱くシンジへの愛情がプログラムされたものにすぎないと知りつつ、それでよかったとする生き様。
つくりものの愛情であろうと自分が愛情を抱き、その愛情を対象が受け取った事実は変わらない。こうした価値観は近年いわゆるギャルゲーや乙女ゲーを通じて広く一般に受け入れられたに違いない。

つくりものの人間に惚れることに意味はあるのか。遡れば『ブレードランナー』で既にこの問いかけは為されていた。1982年の人類にこのテーマは先進的すぎたのだ。だが2021年を生きる我々にならそこに意味はあると胸を張って答えられることだろう。だから『ブレードランナー2049』では更に一歩踏み込み、レプリカントであるKとホログラムのJoiという作り物同士が交わす愛情を表現してのけられたのだし、我々受け手もそれをするりと飲み込むことができた。
デッカードが連れている犬が天然種か否かを問うKへの「そんなこと知るか、犬に訊け」との返答は、即ち実存とは他者との関係性によってのみ顕現するものにすぎないという大きな示唆をもたらす。マムがKに「あなたには魂なんて必要ない」と述べたのも「魂の不在は人間性の不在の証明たりえない」と信じているからこそだろう。

閑話休題、アヤナミの消滅によってシンジは綾波・カヲルに続いて三度目の喪失を経験する。
しかし三度目のシンジはこれまでのシンジとは違っていた。ケンスケやトウジ、絶望だけが待っているかのような世界でミサトと加持の間に生まれたリョウジ少年たちと触れあうことで今やシンジは優しさと強さのなんたるかを知り、どんな時にも人間は他者を思いやることができる、まだ自分にはやるべきことがあると知った。
真っ赤に泣き腫らした目で彼は立ち上がった。

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