シン・エヴァンゲリオン劇場版:||が捧げる祈り【全文ネタバレ】

8年の年月は人間を変える。

新劇場版・序から数えれば13年強、TV版放映開始から起算して実に25年。子供が大人になり、へたをすれば孫をもうけていても不思議のない歳月である。
しかしQのあのラストからの8年にわたる「溜め」は意味合いがまるで異なってくる。

早速の自分語りでいささか恐縮だが、かく言う自分は’19年7月に脳梗塞を発症した。迅速な処置のおかげか幸い後遺症もなく予後を送れてはいるものの、本人的には「シンエヴァ見るまで死んでたまるか」の一念だけを胸にこの1年9ヶ月を送ってきたと言って何ら過言ではない――なにしろ肝心の0706作戦も病院のベッドの上で見ていたのだから。
死とは決して非日常ではなく、日常の道ばたにぱっくりと口を開けているものだった、そんなことを身をもって教えられた次第だ。

だが不運にも結末に辿り着かぬまま病に倒れ、或いは不慮の事故に見舞われ世を去った人も決して少なくはないはずだ。実際自分も改元間もないタイミングで二十年来の友人を一人喪っている。
テレビ版以来の25年間、オリジナルメインキャストの誰一人欠けることなく(増尾昭一という大きな才能を失いはしたものの)今日この日を迎えられたことは奇跡と言うほかない。まずはその奇跡にあずかったことをただ率直に感謝したい。

8年の年月は社会を変える。

Q公開時には既に表面化していた現代社会を取り巻く不寛容さは日増しにその度合いを強め、細分化・先鋭化の一途をたどるSNSで誰もが見たくない情報から目をそらす努力さえ不要のエコーチェンバーに籠もって過ごし、なんとなれば「見たくない情報が存在する」ことそのものを悪と断じて殴り合い罵り合い、未曾有の感染症も手伝って今や人類は心身共に全地球レベルで病んでいる。

そんな現代に向かって『そういう時代や社会に寄り添った肌感覚に敏感(パンフレットp73・鶴巻和哉:談)』で『それなりに社会情勢や、周囲の空気感にも目を向けていて、今、作るべきものが分かって作って(同上)』いる庵野秀明が呈示するエヴァンゲリオンの結末。

8年の年月は庵野秀明をも変える。

不寛容な社会に≪壊≫された庵野秀明。肌感覚に敏感であるから、周囲の空気感に目を向けているから、今作るべきものが分かっているからこそ≪壊≫れた庵野秀明。
そして社会に、伴侶に≪癒≫やされ、社会を、伴侶を、とりわけ自分を≪癒≫やすべく敢えてシン・ゴジラのメガホンを取った庵野秀明。

’14年、東京国際映画祭でアマチュア時代を振り返り「フィルムの最後に『おわり』って出しとけば終わるんだと学んだ」と述懐する庵野がシン・ゴジラで冷温停止したゴジラの佇む東京駅という結末を選んだのは、彼の本当にやるべき仕事が『まだ終わってない。事態の収拾にはまだ程遠い』との忸怩たる思い、もしくは焦燥感も込められていたのではなかろうか。

シン・ゴジラから5年。満を持して庵野が結ぶエヴァの「終劇」を我々は目にした。

それはこの世からこぼれ落ちた命を受け入れ、なお前に進む人間の強さ。
それは人生で今日が一番若いのだ、今日を精一杯生きる、カルペ・ディエムの精神。
休む時間が必要なら必要なだけ休めばよい。心身を休ませ思索を巡らし、立ち上がったらそれを糧にまた進もう。
きっとあなたを必要としている誰かがいるはずだから。

第3村を舞台とするAパートは、転車台を中心とした扇形車庫の風景こそ静岡県・新所原ではあったが、そこに漂う空気感はそのままQ以後≪壊≫れていた庵野の心象の引き写しであった。というのもこの新所原の転車台と似た風景が庵野の郷里である山口県宇部市からほど近いJR山口線・新山口駅にも広がっているのだ

シン・エヴァ(以下「本作」)をふまえ、3.11を経て2012年に公開したQを振り返るに、そこには先に引用した鶴巻が庵野を評して言う「肌感覚の敏感さ」を感得できる描写はなかったと言ってよい。

この理由として自分は『シン・ゴジラという所信表明【ネタバレ多数】』エントリ内でこう弁護した。

「Q」で庵野が災厄の描写を封じたのは「被災者に配慮したから」でもなければ「現実に起こってしまった大災害を目の当たりにして価値観が揺るがされたから」でもない。
「当時の庵野のイマジネーションでは現実に到底太刀打ちできないから」だったのではないだろうか。
庵野の師匠にあたる宮崎駿は「風立ちぬ」で関東大震災の描写に真っ向から立ち向かった。
その「風立ちぬ」の描写は徹底して主人公・二郎が持つ美意識をその重心と設定している。二郎が「美しい」と感じたものしか画面に出てこないと言い換えてもいい。
轟々とわき上がる大火災の真っ黒い煙が意思を持つかのように空を覆い尽くす様に、少なくとも自分は恐怖と同時に「美しさ」を覚えた。
つまりこの辺は庵野信者プラス自分の感覚を信じたいが為の、いわば牽強付会、我田引水である点お断りしておく。
それでも。
庵野は宮崎の「美しさ」の描写と、自分の感覚を信じて勝負できる強さに敗北感にも似た感情を覚えたのではないかと考える。

本作を見終わった今なら断言できる。
これは全くもって見当外れ、庵野秀明を擁護したいが為だけに仕立て上げた、現実認識を著しく欠く侮辱も同然の妄言だった。
世界で一番尊敬する映像作家の援護射撃を気取って背中から撃つような真似をしてしまったことを猛省しここに撤回する(該当エントリにも追記済み)。

では真相はどうだったのか、想像しようと思えばいくらでもできる。現に自分も仮説を持ってはいる。
しかし3.11以後に改稿が為された事実の有無は今となっては消息すら辿れない与太話半分で、公式なコメントが存在しない以上は悪魔の証明にも陥りかねない。そもそも新劇場版3+1部作がこれだけ美しく終結を見た今、詮索してみたところで得する者など誰もいやしない。
ともかく庵野秀明がQのあと≪壊≫れたのはその痛々しいまでの作品作りへの誠実さと現実との板挟み故であろうことに疑いはない。

Qにおいてネルフの日常を、自分自身が守った街を、世界再生の可能性を、そしてカヲルを奪われたシンジは本作でもまだまだ多くのものを奪われ続けた。
だが同時に多くのものを取り返すことができた。その最たるものはトウジ・ケンスケ・ヒカリ・アスカ・アヤナミたちがシンジに投げかけた「優しさ」によるシンジ自身の存在意義であった。

優しさのかたちにも様々ある。
どこまでも赦し、受け入れ、「お前は充分に戦うた」と包み込むトウジやヒカリの優しさ。
少しだけ距離を置き肯定も否定もせず、居場所だけ与えて面倒は見ない、ただ「でもお前の親父は生きてるだろ。家族だ、縁は残る」とまだ選択の余地があることを忠告するケンスケの優しさ。
望むと望まざるとに関わらずエヴァパイロットになった自覚を促し「自分勝手に死ぬことだけは絶対に許さない」と人間なら当たり前に持っているはずの生への執着を再確認させるアスカの優しさ。
何の衒いもなく、ただ無垢に「仲良くなるおまじない」を結ぼうと手を差し伸べるアヤナミの優しさ。
時に厳しく叱ってくれる年長者の優しさ。人類の居場所を必死で確保し続けるヴィレとKREDITの優しさ。土の匂いの優しさ。絵本「オチビサンとやまあらし」が描いているであろうテーマの優しさ。

シンジに父のS-DATプレーヤーを返し、「好きな人と一緒にいたかった」と言い残しアヤナミレイはその悲しすぎる生を終えた。自分が抱くシンジへの愛情がプログラムされたものにすぎないと知りつつ、それでよかったとする生き様。
つくりものの愛情であろうと自分が愛情を抱き、その愛情を対象が受け取った事実は変わらない。こうした価値観は近年いわゆるギャルゲーや乙女ゲーを通じて広く一般に受け入れられたに違いない。

つくりものの人間に惚れることに意味はあるのか。遡れば『ブレードランナー』で既にこの問いかけは為されていた。1982年の人類にこのテーマは先進的すぎたのだ。だが2021年を生きる我々にならそこに意味はあると胸を張って答えられることだろう。だから『ブレードランナー2049』では更に一歩踏み込み、レプリカントであるKとホログラムのJoiという作り物同士が交わす愛情を表現してのけられたのだし、我々受け手もそれをするりと飲み込むことができた。
デッカードが連れている犬が天然種か否かを問うKへの「そんなこと知るか、犬に訊け」との返答は、即ち実存とは他者との関係性によってのみ顕現するものにすぎないという大きな示唆をもたらす。マムがKに「あなたには魂なんて必要ない」と述べたのも「魂の不在は人間性の不在の証明たりえない」と信じているからこそだろう。

閑話休題、アヤナミの消滅によってシンジは綾波・カヲルに続いて三度目の喪失を経験する。
しかし三度目のシンジはこれまでのシンジとは違っていた。ケンスケやトウジ、絶望だけが待っているかのような世界でミサトと加持の間に生まれたリョウジ少年たちと触れあうことで今やシンジは優しさと強さのなんたるかを知り、どんな時にも人間は他者を思いやることができる、まだ自分にはやるべきことがあると知った。
真っ赤に泣き腫らした目で彼は立ち上がった。

「エヴァ」はくり返しの物語です。
主人公が何度も同じ目に遭いながら、ひたすら立ち上がっていく話です。
わずかでも前に進もうとする、意思の話です。

Qから8年後、本作で庵野が選んだ表現はまさに新劇場版の所信表明を有言実行したかたちである。

シン・ゴジラと時を同じくして公開された『君の名は。』もやはり3.11を経ての災害との向き合い方をモチーフとした作品であった。
だがこちらはシン・ゴジラとは正反対に、明確に、災害を「なかったこと」にして空前のヒットを巻き起こした作品である。
どちらが正しいかではない。これは庵野秀明と新海誠の作家としてのスタンスの違いにすぎない。庵野は震災に打ちのめされても明日を信じて足掻く人々に肩を貸しエールを贈ることを選び、新海は震災に心をへし折られた人々(多くは若者)のそばに寄り添いおとぎ話を読み聞かせることを選んだ、というだけの違いである。
奇しくも震災以後を象徴する映画がほぼ同じタイミングで公開され、両方が邦画史に残る大ヒットとなったのも「そろそろあの傷を癒やすためエンタメとして昇華するのもありじゃない?」という、誰もが薄々感じていながら不謹慎の誹りを恐れ遠巻きにしていた主題と同時多発的に向き合い、揃って観客の心を射止められたが故である。庵野も新海も時代を敏感に感じ取るセンスと作家たる覚悟の持ち主であり、そこに優劣を見出そうとするのはナンセンスである。どちらをより支持するかは個人の好きずき以上でも以下でもない。
そしてなによりこのエントリは『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』を語るためにある。

自らの落とし前をつけるため第3村を去りヴンダーに戻ったシンジは、耐爆隔離室での軟禁に従うことでその身の処遇をミサトに、ヴィレに委ねる。その姿を見てサクラとミドリの感情は千々に乱れる。

本作でのヴィレ各クルーの描写はいずれも最低限ながら効果的にキャラクターに深みを与えていた。Qでもシンジに明確な敵意を隠さなかったミドリがシンジに銃口を向ける。しかし「相手は子供であり同情の余地がある」というスミレの主張が引き金にかけた指を震えさせる。いっぽうサクラは自分にとってのヒーロー(思い返せば序でシンジを殴ったトウジを幼いサクラが「家族を救った英雄を」と叱ってもいた)であり、同時に両親を奪った仇でもあるシンジへの感情の持って行き場を失い泣き叫びながら引き金を引いてしまう。
結局銃弾はシンジを庇ったミサトに命中するわけだが、この間シンジは狼狽えも命乞いもせず、ただ自分をエヴァに乗せてほしいと嘆願する。ここで彼女たちの銃弾に倒れるならそれが自分が引き起こした全ての落とし前であり甘んじて受け入れる、という覚悟の表れであろう。
同時にミサトにも覚悟があった。息子リョウジの生きる世界を守る、そしてシンジを守るためならどんな困難も乗り越えてみせるという覚悟である。
自分が愛した男の名を息子につける選択は、ともすれば親の因果を子に背負わせるかのようにもとられるかもしれない。しかし両親の出自を隠し通す覚悟と併せて考えた時、次世代への希望を「リョウジ」の名に託す想いの真摯さが浮き彫りになる。我が子を避けるミサトとゲンドウが共に似たようなゴーグルで目元を隠しているのは悲しい皮肉である。
Qでミサトがシンジに冷たくあたった理由を「自分が情に流されるとろくなことにならない」と語る点に関しては、Qでの描写と照らし合わせるといささか後付けの正当化にも感じるが、同時にリョウジに対しても痛みを抱えているとなれば納得せざるを得ない。これら一連のキャラ立てを辻褄合わせと捉えるか、それとも再びミサトを好きになれる待ちに待った描写と捉えるかは好き嫌いの問題だろう。
二人の覚悟の前にミドリは「もう明日生きることだけ考えよう…」とサクラを宥め、シンジを赦すことを選ぶ。これも復讐心を捨てて「わずかでも前に進もうとする意思」と言える。

かつてテレビ版弐拾話でリツコはエヴァについて「ただのコピーとは違うわ。人の意思が込められているもの」と語った。
既存作品のパロディや引用しかできないと自己評価を下す庵野秀明が、せめて意思をこめてオリジナル作品「新世紀エヴァンゲリオン」を世に送り出したことについての言及、とメタ的には解釈される有名なセリフである。
だがテレビ版・旧劇場版で口にする「ヒトの意思」はその大部分が意思と呼ぶにはあまりにもキャッチボールの体をなしておらず、エゴと呼んだほうが差し支えなさそうなドッジボールだった。なにしろ上記引用のセリフが発せられるシーンも最後はミサトにビンタされて終わるのだ。
きっとその反省もあるのだろう、本作の、ひいては新劇場版の登場人物が発露する意思は常に覚悟と覚悟のぶつかり合い、受け止め合いに昇華されてきた。
相手の覚悟を知り、また相手も自分の覚悟を知って共に許し合い、前へ進む。

「許し」は間違いなく新劇場版の裏テーマのひとつであるはずだ。
また、「許し」とは「肯定」に繋がる。
これまでのエントリで繰り返し言ってきたように、序は「かつてエヴァを好きだった、今でも好きでいたい自分」を肯定し、破は「綾波やアスカを好きだったあの頃の自分」を肯定した。
ではQ+シンにおいて肯定されるものは何か。

それは紛れもなく「すべてのエヴァンゲリオン」の肯定である。

本作の英語副題”Thrice Upon a Time”はジェイムズ・P・ホーガンの小説「未来からのホットライン」の原題であるが、見てわかるとおり日本語で言う「昔々」にあたるイディオム”Once upon a time”のもじりなので直訳は難しい。
強引に訳すならば「単一時間(軸)上にある三度」といったところか。次第にスケールが大きくなり最後には世界の消滅さえ招きうる3つの事件をそれぞれとある技術の応用、そのまた応用で解決する「未来からのホットライン」のあらすじをそのまま言い表したフレーズである(ちなみにシン・ゴジラで石原さとみ演じるカヨコ・アン・パタースンの名はこの小説の登場人物アン・パタースンのオマージュ)。新劇場版に照らせば序・破・Qの3作というよりもさらに遡ってテレビ版・旧劇場版・新劇場版の3ジャンルを包含していると自分は考える。

さて、作品のファンは序・破によって肯定され救われた。
だが肝心の好意対象たる作品、テレビ版・旧劇場版の自己肯定感が低すぎた。
いわく難解、いわく残酷、いわく投げっぱなし。
後述する二次創作の隆盛もその自己肯定感の低さゆえであったと言える。
こうした言葉から「エヴァ」そのものが救われないことにはファンの居場所がないのだ。
彼らが両の足で立って「エヴァ」の(二次創作までも含めた)終わりを見届け、さようならを言えるようにする――それが新劇場版に残された最後の大仕事だったのだ。

そのためのお膳立てを務めるのが二人の少女、綾波とマリ(彼女の存在については後述する)である。

QでS-DATプレーヤーだけを残して初号機の中に姿を消した綾波は自らの意思で「碇くんがもうエヴァに乗らなくていいようにする」ため14年間その場に留まっていた。
こうした印象的なセリフを言いっぱなしにさせず、因果として丁寧に回収してゆく誠実さはテレビ版・旧劇場版と新劇場版の大きな違いと言えるし、調整されたパーソナリティであろうとも、そこに芽生え育まれた感情は本物であるという確信を観る者に与える名シーンであった。

マイナス宇宙で量子的存在となったゲンドウと、綾波の助力で初号機を奪い返したシンジ。二人は次々と情景を移して互いの槍を交える。
量子というよりもメタ存在となったと言った方がより正しいだろうか。
ここで二人はかつての対立が非生産的であったことを認める。セリフは直接的には序・破・Qで起きた数々の出来事を振り返っているのだが、同時にこれらの言葉でテレビ版・EoEをもメタ視点から振り返っているのは露骨にBANKを多用する画面構成からも一目瞭然だった。そう、エヴァといえばBANKなのだ。元来手抜きと揶揄されるBANKを文脈として楽しめる芳醇さを感謝しなければならない。
そして二人は「自分たちに必要なのは暴力による解決ではない」との結論に達する…というか、むしろゲンドウが誘導する。ここが――「まだわからないのか!」のセリフあたりから以後が――個人的に今回最も意外な点であった。これまで頑なに息子と向き合うことを拒んできた碇ゲンドウが事ここに至っての心変わり。父を乗り越えろ、必要なら父を殺せ、殺してくれとのSOSであるのではとさえ自分は解釈した。
だがシンジの選択は対話であった。

実際シンジは最初からゲンドウとの対話を切望しつづけてきた。「どうなの、父さん!?答えてよ!?」とずっと叫びつづけてきた。そして視聴者もまた「一旦話し合いしようよ…」とずっとモヤモヤしつづけてきた。
25年越しの対話の始まりである。

「エヴァの呪縛」とは25年間にわたり我々視聴者にかけられた呪縛も意味する。この呪縛を解くにあたってEoEで採られた方法論は「お前達がずっと謎だ謎だと言ってきたこれの正解はこれだ!それの回答はこうだ!わかったらもう近寄ってくるな!」という拒絶の答え合わせだった。
その強烈な呈示がさらなる「エヴァの呪縛」となり、ある者は口を噤んでエヴァを語らなくなり、ある者は二次創作へ安住の地を求め彷徨った。
新劇場版の存在そのものを否定しつづけ、昔に戻れと庵野夫妻の離婚さえ望む過激派までをも生み出してしまったのはあまりにも悲しすぎる行き違いだっただろう。

では本作で真っ向からの対話を、それもテレビ版とは正反対にシンジの側から問いかけ、共に答えを探り当て、すべてのキャラクターが課せられていた役目、疑いもしない、するはずもない「設定」から解放されそれぞれの自分を模索しに旅立つ過程を見せエヴァの呪縛を解く方法を採ったのはEoEへの反省から学んだ結果だろうか?EoEの結末を否定するのが本作のやろうとしていることだったのだろうか?「みんなも結婚するといいよ」という陳腐な一言が言いたいだけだったのだろうか?

マリほどの異物を投入してでも新劇場版でエヴァを終わらせねばとの危機感はあったのかもしれない。しかしエヴァが過去やってきたことの中で否定する必要があるとすればそれはやはり「謎は謎のまま放っておけば煮詰まったファンが好意的に解釈して作品の尾ひれを伸ばしてくれる」という不健全なヒット作製造法そのものではないかと自分は思う。

庵野がEoEでエヴァを本気で終わらせようとしたのは間違いない。しかし壊れたままで走り続けなければならなかったEoEとは異なり、心を休めるだけ休めてから臨んだEoE、まさに「真・エヴァンゲリオン劇場版」が本作であったと自分は思う。

EoEの否定ではない、EoEで言葉が足りなかったところを冷静に見直し改めて届けなおす営み。
「夢は現実の続き、現実は夢の終わり」の言葉には観客に対する一方的な虚構からの脱却を促すニュアンスが含まれていた。
「虚構と現実を等しく信じられる生物は人間だけ」というゲンドウのセリフはそれを受けての顕著な改変であったと感じる。アニメそのものが嫌いになりそうなところまで落ちた鬱期間に仲間達の作るアニメ作品に触れて帰ってこられた庵野個人の実感も大いに籠もっていたはずだ。
「現実が辛く感じたらいつでも虚構に戻っておいで」――かつて拒絶でしか自分を保てなかったせいで「現実に戻れオタクども!」と刃物を振り回したことをあるいはずっと悔いていたからこそ出てきたメッセージなのかもしれない。

「すまなかったな、シンジ」――初号機にその身を食わせることでしか罪を償えないと思っていたゲンドウ。だがシンジが本当に望んでいたのは他者との無条件の融和でもなければ母との再会でもなく、ただ父との和解だった。
ゲンドウの心象風景に流れる工業団地の風景は庵野の故郷である宇部新川、道路を跨ぐいくつものパイプラインはJR宇部新川駅前から興産通りを直進する景色そのものだ。視聴者が25年ぶん歳を取ったように庵野もまた歳を取り、今や自己の投射先はシンジからゲンドウに移った。「すまなかったな」と言われる立場から言う立場に移ったのだ。

EoEでは「お前達が入れあげているものはただのシャシンだ。ただの絵だ」とこれ見よがしに差し込まれる裏返されたセル画の束の映像を本作では更に映写機からスタジオの壁に投影する。だが我々は既に知っている。虚構と現実を等しく信じられることを。虚構の中で入れ子になった虚構、作り物同士の恋さえも無限に信じられることを。

カヲル「再びATフィールドが君や他人を傷つけてもいいのかい?」

シンジ「かまわない。…でも僕の心の中にいる君たちは何?」

レイ「希望なのよ。人は互いにわかり合えるかもしれない、ということの」

シンジ「でもそれは見せかけなんだ。
自分勝手な思い込みなんだ。
祈りみたいなものなんだ。
いつかは裏切られるんだ。
僕を見捨てるんだ。

でも僕はもう一度会いたいと思った。
その時の気持ちは本当だと思うから」

「まごころを、君に」より

さりとてEoEの時点でここまで明確な回答は出ていたのである。だから結局はトータルでの伝え方が乱暴だったということなのだ。

綾波を、アスカを、ゲンドウを、カヲルさえも呪縛から解き放った結果その全員が呪縛の根源たるシンジのもとから旅立ってゆくエピローグ。
インフィニティとなった人類が再び個人にほどけて地上へ還ってゆく。
人類の補完からの帰還は大きなくくりで言えばEoEも本作も同じことを描いている。しかしながら「他者を拒絶できる世界への帰還」から「他者に好きだと伝えられる世界への帰還」へ語り口を変えたことは非常に大きな違いである。

伝説となって久しいアスカの最後のセリフ「気持ち悪い」は様々な考察がひととおり為された今でこそそういうものである、と半ば無理矢理にでも飲み込まれていた。
自分とてEoE初見以来ずっと肯定派のつもりでいたのだが、本作で再構築された展開を目の当たりにした今となっては「庵野がそう言うならそうなんだ」という後ろ向きな、ある意味で強がりの肯定だったことを認めざるを得ない。後知恵でいくら正当化しようともあの日に劇場で最後に打ちのめされた傷は傷として厳然と存在していたのだ。と思い知らされた。

EoEで庵野は文字通りパンツを脱いで見せた。これから見せるのは俺の自慰行為ショーであると『Air』冒頭ではっきり映像化しているのだから疑いようもない。
そんなパンツを脱いだ庵野を当時の自分含む多くの観客は賞賛した。だが庵野のその行いを本当に心の底から「これぞクリエイター」と純粋な敬意で評価できた人が、いいぞもっとやれという無責任な野次馬根性は一欠片もなかったと断言できる人が果たして何人いたのか。もういいお前は充分やったと毛布にくるんでやれる人がいたか。
こう考えた時、そんな無責任なフォロワーを敵視するどころか再び救済を試みようとするそのサービス精神にただただ頭が下がる思いである。

正直なところ自分は初見Aパートからずっと感極まっていて細かいセリフや描写の意味の多くを取りこぼしていたのだが「涙で救えるのは自分だけだ」の一言でようやく我に返った次第である。映画に動かされる感情に身を委ねて涙を流すのは確かに気持ちいい。けれど今は心穏やかに彼らの物語の終わりを見届けなければと思い直すことができた。

ミサトの命と引き換えに手渡されたガイウス=ヴィレの槍で以てNEON GENESISを発動させようとするシンジを止めたのは母ユイ。ユイの背中をそっと支えるのは父ゲンドウだった。
来るべき使徒との対決、そして契約の時に備え自分の意思で初号機にダイレクトエントリーしたユイ。理論の提唱者であるミサトの父とユイが全ての元凶のようにも見えるが、その理論が事実であった以上彼らを責めることはできない。そうは言っても遺されたゲンドウはたまったものではない。
「もしも願いひとつだけ叶うなら/君のそばで眠らせて/どんな場所でもいいよ」
Beautiful Worldの歌詞がそのままゲンドウに当てはまるかのようだ。

人類を救うためとはいえ永遠の存在となることを決意したユイを見送りたい――ゲンドウの悲願「ユイに再会する」の真意はそこにあった。
「父に、ありがとう/母に、さようなら」テレビ版弐拾六話のラストメッセージがこれほど美しく回収されるのか…このシーン前後から自分の中に去来する想いは「ああ、終わっていく。エヴァが終わっていく」それだけだった。

渚にて。
NEON GENESISを両親に託しマイナス宇宙の底の底で自我境界を失ってゆくシンジ。少年は神話になろうとしていた。
そこへやってきたのが終わらせ請負人たる真希波マリ・イラストリアスである。

先にも言ったようにマリはこの物語において異物であり、エヴァを終わらせるとは即ちエヴァに関わる全てとエヴァそのものを救うことを指す。
真の希望をその名に冠するデウス・エクス・マキナであり(イスカリオテの)マリア。絶対的救済者と言い換えてもいい。

自身を贄としてNEON GENESISを発動させる覚悟だったシンジは初号機=ユイと13号機=ゲンドウの遺志によって自分も救われなければならないのだと知らされる。メタ的観点で言ってもシンジの救済は観客の救済と同義である。
物語の構造上シンジを救える立場にあるのはエヴァの円環の外からやってきたマリただ一人。

では救済者は誰が救済するのか?

奇しくもQと前後してテレビ版・劇場版が制作された『魔法少女まどかマギカ』にもつながる命題である。
『まどかマギカ』では救済者たる概念となった鹿目まどかを救済するため暁美ほむらが自身を悪魔に墜とす選択をした。第三者から見れば台無しにさえ見える選択だが、当事者にとっての幸せを最優先した結果と受け入れることは不可能ではなかった。これはこれでまどマギらしい円環の閉じかただと言える。

最後の最後に残った難しい選択を本作は実に清々しくやってのけた。
シンジの首から呪縛の象徴たるDSSチョーカーを外し、「行こう、シンジくん」と差し伸べられたマリの手をシンジが逆に握り「行こう!」と呼びかける。

「行こう、マリ」ではない。ただ一言、カメラ目線での「行こう!」だ。
マリだけでなく観客全員――マリは観客の願望、全員が救われてほしいという願望を一身に抱いた存在であり最初からこれらは同義と言っていい――を呪縛から解き放つ一言。
いささかシンジが超然的すぎると感じる向きもあるかもしれないが、シンジがマリを選んだ理由はやはり「互いが互いを救いたい気持ち」にあるのではないかと思う。「綾波がカヲルと、アスカがケンスケとくっついたから消去法でマリ」のような消極的な理由ではないと。
そんなエヴァを卒業する人々を送り出す大事な大事な最後のラインを緒方恵美ではなく神木隆之介に託すことで緒方恵美さえもエヴァの重圧から解き放ってみせた。

カラー10周年記念展に安野モヨコが寄稿、アニメ化された『おおきなカブ』の中で「おじいさん(庵野)や一緒に働く人たちがみな喜びに満ちあふれてほしいという願いを込めて」と社名の由来について語っている。
「濡れ場を演じ終えたあと優しく毛布を被せてくれるような監督の思いやりがありがたかった」とEoEのアフレコ後に述懐していた緒方恵美。時にボロボロになりながらキャラクター・碇シンジに命を吹き込むべく25年間研鑽しつづけてきたことについて異論の余地はないだろう。
パンフレット掲載のインタビューでも彼女は「死ぬまで、14歳の心を演じられる役者で居続けられたらいいなと思っています」と結んでいる。緒方恵美=14歳のシンジがエヴァを卒業する花道を飾るにはこれがベストと判断したなら見事と言うほかない。

8年という年月は新劇場版のありようも変えた。これぞエヴァのライブ感。テーマをブレさせず時代ごとのアップデートをほぼ完璧といってよいほど完遂させる肌感覚の鋭敏さ。8年の間にオタクを構成する地図もずいぶんと書き換わった。そんな今でこそ刺さってほしいという祈り。
改めて庵野はじめスタッフ全員の努力に感謝と賞賛の言葉を贈りたい。

テレビ版では拾六話が初出となる心象世界を象徴した列車だが、新劇場版では早々に序から姿を現し、主にシンジの心境を節目ごとに語る場として機能してきた。言い換えればこの列車に揺られているかぎりシンジはどこへも辿り着くことはない。
列車に乗ることを選ばずマリと二人して町へ――庵野の故郷・宇部新川の町へ飛び出すラスト。跨線橋の階段を駆け上がる二人の後ろ姿を照らす希望の光に我知らず涙が溢れたのは二度目の鑑賞時のことだった。初見は先にも言ったとおり終わりゆくエヴァへの万感の思いと「最後まで涙を流さず見届ける」という決意によって堪えきれたのだが…。

新劇場版とは
オリジナル以後ずっと公式/非公式両面から『補完』され続けてきた
「歪な、でも目を背けきれないエヴァンゲリオンというターム」

「きれいなエンタテイメントとして消費され終わりを迎えるヱヴァンゲリヲンという商品」
に再構築する作業なのだろうと。そういう意味でこの3+1部作は「最後にして最高のキャラクターグッズ」となるであろうと思うし、そうなって欲しい。

序の初日、『序【ネタバレ盛大に含む】』エントリで新劇場版の今後の展開について上記引用のような夢想をした。
当時確信もなくこう書いたわけではないのだが、ここまで見事に「きれいなエンタテイメントとして消費され終わりを迎えるヱヴァンゲリヲンという商品」に仕上げてくれるとは予想していなかったし、そのうえでの寂寥感がないと言ったら嘘になる。

だが、まだもうしばらく醒めない夢を見ていたかったところへアラーム音もけたたましく叩き起こされ追い出されるように劇場を後にしたEoEと比べればやはり「朝だよ。外はいい天気だよ」と優しく揺り起こされ、まどろみの中で今見ていた夢を(いつかもう一度見れるといいな…)としみじみ反芻するが如き本作の締めくくりは実に気持ちがいいものである。

公開初週ボックスオフィスは公称33億3842万2400円、観客動員数219万4533人と劇場エヴァ史上最高記録をいともたやすく塗り替えたそうだ。
感染症蔓延による諸事情を差し引いても歴代最高の興収を叩き出したQに比して1.4倍強のスタートダッシュは尋常ではない。
完結の日を待ちわびていた旧来のファンに加えて近年のAmazonプライムビデオやNetflix、または公式Youtubeでの無料配信などで新規ファン獲得に成功していたからこその数字であろう。
DVDやBDの売上以外にリクープの手段が乏しく、さらにはテレビアニメ放送枠自体の飽和で再放送の機会もほぼ失われたことで単一作品の寿命が著しく短くなっていた序~Qの公開当時を振り返ると、8年の年月は日本アニメを取り巻く環境も変えたのだと思わされる。

本作公開直前「DEATH(TRUE)2+Air/まごころを、君に」がリバイバル上映された。
初見当時京都では春エヴァも夏エヴァも小さなスクリーンでしか上映されていなかったため、この機会に最新の設備で上映されるEoEを体験しておこうとTOHOシネマズ二条へ足を運んだ。
結果、自分でも驚くほど心穏やかに鑑賞できたのは「なんてったって今は新劇があるからな…」という安心感ゆえだろう。
本作を経てエヴァを卒業し、OBとなった今EoEを見返し自分が何を思うのかが密かに楽しみである。近いうちに試したい。

…まあOBとか言いつつ今日現在で4回鑑賞済み、最低でもあと3回はリピートするつもりだからさっさと卒業しろよって感じなのだが。

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