シン・ゴジラという決意表明【ネタバレ多数】

現時点で国内最高峰の上映環境を誇る109シネマズ大阪エキスポシティのレーザーIMAX。

なにが最高峰なのかご存知ない方にざっくり説明すると、現在日本国内に設置されているIMAXシアターはいずれもスクリーンの縦幅が本来想定されているスペックより狭く、それゆえ「なんちゃってIMAX」などと揶揄されてきたものなんですね。

だから日本で観られたアバターもダークナイトもパシフィック・リムもアヴェンジャーズもインターステラーもなんちゃってアバターやなんちゃってダークナイトやなんちゃってパシフィック・リムやなんちゃってアヴェンジャーズやなんちゃってインターステラーだったわけです。ちぇ。

オープンしたのが昨年11月なのでスターウォーズや火星の人はフルスペックスターウォーズとフルスペック火星の人ってわけ。

そんなフルスペックIMAXでシン・ゴジラ初日を初回と15時50分の2発ほどキメてしまいほっとくといつTwitterに致命的ネタバレおもらししてしまうかわかったもんじゃない精神状態の空条さん、このたび長らく開店休業だったblogをしたためております。 
おいてめえ夏コミ原稿大丈夫なのかよと自分でも思いますが今このエモみが揮発しないうちにどこかへ固定しておかないとよけい原稿が手につかなくなるからしょうがないんだよ!!

新劇ヱヴァの時と同様にネタバレ上等で書き殴ってますので未見の方は自己責任でよろしくです
あと敢えて「新劇場版」にカテゴリ分けしてますがまあそういうことです。

と言ってもどこから手をつけていいやら。まずはちょいと昔話から。
本題に入る前に改行いっぱい入れとくんでそこまでは一応大丈夫ですよ。


’14年10月開催の東京国際映画祭で企画された「庵野秀明の世界」。

アマチュア時代からDAICON FILMを経てGAINAX、そして実写映画監督としての庵野カントクくんの歴史を当時のフィルムでふり返ろうって企画でした。

この第1回目「アマチュア・庵野秀明」は事前抽選制のガチ特別上映で、話の種にと応募してみたらこれが当選しちゃいまして。

金欠を推して往路は新幹線、復路は夜行バスの強行軍で行ってきたんですね、東京は日本橋のTOHOシネマズまで。

今でこそ「DAICON III」「IV」は言うに及ばず「じょうぶなタイヤ」すら動画サイトを漁ればすぐに見られるアマチュア時代の庵野の作品ですが、それが最先端である現代のシネコンのスクリーンにかかるというのは控えめに言ってもおっさんオタク総うれション必至のご褒美。しかも今回は表には全く出回っていない高校美術部在籍時代の8ミリ映像「ナカムライダー」なども上映される、まさに世に出る前の庵野を楽しみ尽くせる上映会でした。

その特別上映の最後、「DAICON IV」で空条さんはボロ泣きしました。
いや、youtubeで見ていてもラストの1コマ作画で太陽系らしき構造が引いていってDAICONのエンブレムが現れると涙ぐむっていうかそれを文章に起こしてるだけで軽くウルッとくる程度には涙腺のセーフティぶっ壊れるシークエンスなんでこの日も泣くんだろお前、とハンカチ用意してたんですけどもね。

Twilightの歌い出し”The visions dancin’ in my mind”を聞いた瞬間から滂沱の涙は想定外もいいとこでしたね!
前述の「パッパーーーー トワーイラーイ」の頃には嗚咽を抑えるだけで精一杯でしたよね!!

DAICON III・IVを初めて見たのが確か中3だから85~6年ごろ。当時通い詰めていたナムコ直営ゲーセンのモニターに常連の一人が持ち込んでかかってたVHSでした。
しばらくしてその持ち主にMADビデオなんかと一緒にダビングしてもらって実家のテレビで何度も何度も何度も何度もコマ送りで見たもんです。その刷り込みたるや凄まじく、不惑を過ぎた今でも映像なしのTwilightを聞くだけで心はあの頃に飛んでいっちゃう。それほどに特別な映像なのですよ!
つい最近Twitterで「アニメ好きなら押さえておきたいアニメ」的ハッシュタグつきでDAICON IVの名が流れてるのを見かけたけど個人的には「アニメ好きなら押さえておきたいけど軽い気持ちで観てほしくはないアニメ」なのですよ!!

まあ何が言いたいかと言うとことほど左様に空条さんに備わっているん゛ぎも゛ぢい゛い゛い゛~~~スイッチは庵野カントクくんに大体おさえられてるってことなんです。
それっくらいの信者がこのblogを書き散らかしているんだって前提でお読みいただきたいと。

さて本題です。いっぱい改行入れとくからマジ自己責任でお願いします



































































































































…と改行してみたもののいざとなるとホントにどうまとめればいいのか難しい。これはなにも自分が劇場で観たことのあるゴジラ作品が’84ゴジラと「のび太の恐竜」の同時上映だったモスゴジだけだからとかいう理由じゃないとは思う。
そんな宙ぶらりんな気持ちのまま書いていきたい。



長谷川博己以下錚々たるキャストが名を連ねるトレイラー発表後に風発したおおかたの予想通り、全体の流れや画面作りは「日本沈没」や「日本の一番長い日」、「激動の昭和史 沖縄決戦」を彷彿とさせる群像劇がメインで、ゴジラは災害の記号として扱われている。
冒頭の釣り船や自動車を押し流しながら自身が津波となって押しよせるゴジラ第2形態ほどの直接的な比喩を見れば誰だって気づくことだろう。

なんの予告もなく現れて、日常を破壊し、蹂躙し、日本全土に恐怖と無力感を刻み込む存在。
しかもそれは人間がわけもわからずに振るった「核」というプロメテウスの火が生み出した存在。
あとに残されるのは累々たる死体の山と放射能の爪痕。

なにをどう言い繕おうともゴジラを描く権利と、同時にそれを描き続けていく義務を持つのは2度の原爆投下を体験した日本だけなのだ。

制作発表時の庵野のコメントにこうある。

ゴジラが存在する空想科学の世界は、夢や願望だけでなく現実のカリカチュア、風刺や鏡像でもあります。
現在の日本でそれを描くという無謀な試みでもあります。

新劇ヱヴァの所信表明が先例であるように、こうした文章を庵野が寄せる時は決まって極限まで単語の無駄を削ぎ落とし、作品を見た後いかなる曲解も誤解も生まれる余地のない言葉を選ぶ。

夢、願望、現実のカリカチュア、風刺、鏡像、無謀な試み。
鑑賞後の向きにはこれらのワードがどの描写を指しているかすぐにわかるはずだ。

自身の想像力の欠如を「想定外」の言葉で誤魔化すしか能のない防災担当大臣や、発言の責任を負いたくないが故に何一つ具体的なコメントができない御用学者の連中は風刺以外の何物でもない。

不眠不休で雑務をこなす対策本部のほんのささやかな睡眠時間を奪うかのような集団ヒステリーじみた「ゴジラを倒せ」と「ゴジラを守れ」の入り交じるシュプレヒコールはまさに現実のカリカチュアであり、また鏡像でもある。

牧が遺したデータとゴジラ凍結に追いやった血液凝固剤、そしてゴジラ自身の発していた新たな放射性物質の並外れた半減期の短さはいずれも今の日本が抱える残留放射能問題への「こんなこといいな できたらいいな」という夢、願望である。
なにより庵野自身、原子力を「夢の未来のエネルギー」と信じ込まされ育った世代だ。劇中でもゴジラがもたらした物質を「福音」と呼ぶくだりがあるところに原子力そのものへの捨てきれぬ憧憬がうかがえる。

フィクションだからこそ臆面もなくそうした夢や願望、そこへ至るまでの無慈悲な苦難を語れるはずなのに、それすらも許さず「配慮」の名の下に封殺してくる不寛容な社会にあって、それでも夢と願いを謳わんとする気高くも無謀な試み。

シン・ゴジラという作品を俯瞰した時、全てがこの語群に集約されているのがわかる。



さて。

新劇ヱヴァQが「脚本の大幅な修正を強いられた」というスタッフ発ながら具体性に欠ける情報が飛び交っているのはこんなエントリをわざわざ読みに来た人なら大体が知っていると思う。
その原因は全て3.11東日本大震災だ、と断定する意見が大勢を占めている。

曰く、3.11なんかが起こったせいでニアサードインパクトの災害描写がまるごと封じられてしまい、あのようなウソ予告の本編に仕上がったんだ、と。
現に「破」の血の津波シーンまでもが地上波では放送できなくなってるじゃないか、と。

自分は今日まで、というかこのエントリを書きはじめるまでこの考えには与してこなかった。
庵野秀明ほどの表現者がそれっぽっちの理由で自分の表現したいモノを曲げるものか、と。
影響を受けたとしてもそれは軽微な軌道修正ほどの要因にしかなりえないだろう、と。

だが今日この映画を見て、改めて制作発表のコメントに目を通してみてその認識はある意味で正しく、またある意味で甘いと気づかされた。

 

過去の継続等だけでなく空想科学映像再生の祈り、特撮博物館に込めた願い、思想を具現化してこそ先達の制作者や過去作品への恩返しであり、その意思と責任の完結である、という想いに至り、引き受ける事にしました。
今しか出来ない、今だから出来る、新たな、一度きりの挑戦と思い、引き受ける事にしました。
エヴァではない、新たな作品を自分に取り入れないと先に続かない状態を実感し、引き受ける事にしました。

 

「今しか出来ない、今だから出来る、新たな、一度きりの挑戦」
最初に読んだ時は単なる「ゴジラなんてビッグタイトルを任せてもらえるのは後にも先にも今しかない!やっぱり特撮オタクの血が騒ぐ!」程度の意味にしか読めなかったこの一文。
これこそ「Q」で成し得なかったディザスター描写へのリベンジ表明だったのではなかろうか

そして――以下は完全に庵野信者の妄言(さっき「作品を見た後いかなる曲解も誤解も生まれる余地のない言葉」とか言ってたくせに)だが――

「Q」で庵野が災厄の描写を封じたのは「被災者に配慮したから」でもなければ「現実に起こってしまった大災害を目の当たりにして価値観が揺るがされたから」でもない。

「当時の庵野のイマジネーションでは現実に到底太刀打ちできないから」だったのではないだろうか。

庵野の師匠にあたる宮崎駿は「風立ちぬ」で関東大震災の描写に真っ向から立ち向かった。
その「風立ちぬ」の描写は徹底して主人公・二郎が持つ美意識をその重心と設定している。二郎が「美しい」と感じたものしか画面に出てこないと言い換えてもいい。
轟々とわき上がる大火災の真っ黒い煙が意思を持つかのように空を覆い尽くす様に、少なくとも自分は恐怖と同時に「美しさ」を覚えた。

つまりこの辺は庵野信者プラス自分の感覚を信じたいが為の、いわば牽強付会、我田引水である点お断りしておく。

それでも。

庵野は宮崎の「美しさ」の描写と、自分の感覚を信じて勝負できる強さに敗北感にも似た感情を覚えたのではないかと考える。

確かに公開年の順序的には「Q」が2012年11月、「風立ちぬ」は2013年7月だ。だが「風立ちぬ」パンフレット掲載の完成報告会見で宮崎は

 

ちょうど関東大震災の絵コンテができた翌日に3.11が来まして、そのシーンを描くのかどうか、本当に深刻に考えなければならなかったんですけど、1カットも直さずに作ることができました。

 

と語っている。そう、震災前日には「風立ちぬ」の当該シーンのコンテは完成していたのだ。
良くも悪くも自分が見たもののコラージュで作品を織り上げてゆく庵野には到底至れない境地だ。
庵野自身も同じ会見の席で「72歳を過ぎてよくこれが作れるなあと感動しました」と率直な賛辞を贈っている。

そろそろ何が言いたいかわかってもらえただろうか。

ゴジラの放射能火炎に焼き尽くされる都心の畏怖と美が綯い交ぜになったロングショットは、3.11の光景を見た庵野から「風立ちぬ」で見たことのない震災シーンを描いてみせた師匠・宮崎への「今だから出来る」アンサーでもあったのではないかと思うのだ。
特撮博物館で巨神兵の実写化を快諾してくれた宮崎への返礼とともに。

※2021/3/14追記:「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||が捧げる祈り」エントリに記載のとおり上記打ち消し線内の見識を撤回します。

 

タイトルが発表されるや「新と真のダブルミーニングか」「樋口真嗣の真も入ってるんじゃね?」と話題になった「シン」には、だからゴジラとともに庵野秀明自身も次のステップに「進」む第一歩という決意表明も込められているように感じる。

さあ、そんな個人的なメッセージだけで終わらせないのが庵野一流のサービス精神だ。

庵野が作るんだから当然エヴァ好きも劇場にやってくる。
だから鷺巣詩郎を起用するし、「例の曲」を臆面もなく使うし、エヴァで見たようなレイアウトを随所に挟んでくる。
踏切の警報器をナメて電車がすっ飛んでいくカットなどレイアウトから尺の長さまで完全にダミープラグ稼働状態のエヴァ初号機がバルディエルを陵辱するあのシーンの「あのカット」そのままだ。

過剰なテロップ、病的なまでの望遠へのこだわり、わざわざ昭和特撮の音源から引っぱってこられた爆発音…全カットが庵野の好きなもので埋め尽くされている。
在来線爆弾の発想は怪獣のソフビに鉄道模型やプラレールを襲わせて遊んでいたあの日の子供たちの脳内を忠実に再現した結果と言えよう。
間准教授の口から仄めかされる「群体化・有翼化への進化の可能性」とラストシーンで意味ありげに映る「尻尾から分化しようとしているヒトの姿をした何か」はまさしく「巨神兵東京に現わる」への伏線を匂わせる。

そのサービス精神が鼻につく人にはきっと「こんなものゴジラじゃない」と拒否反応を生み出す原因になってしまうだろう。ここばかりは好き嫌いの問題だし「嫌いじゃないがゴジラでやってほしくない」と言われればそれもご尤もではある。
だがしかし前述したようにこの映画には「ゴジラとは何か」という当たり前の問いかけに真正面から向き合い回答を下す強い気持ちも込められていることを忘れないでほしい。
ただの「ゴジラごっこ」などでは決してないことを忘れないでほしい。

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