シン・エヴァンゲリオン劇場版:||が捧げる祈り【全文ネタバレ】

「エヴァ」はくり返しの物語です。
主人公が何度も同じ目に遭いながら、ひたすら立ち上がっていく話です。
わずかでも前に進もうとする、意思の話です。

Qから8年後、本作で庵野が選んだ表現はまさに新劇場版の所信表明を有言実行したかたちである。

シン・ゴジラと時を同じくして公開された『君の名は。』もやはり3.11を経ての災害との向き合い方をモチーフとした作品であった。
だがこちらはシン・ゴジラとは正反対に、明確に、災害を「なかったこと」にして空前のヒットを巻き起こした作品である。
どちらが正しいかではない。これは庵野秀明と新海誠の作家としてのスタンスの違いにすぎない。庵野は震災に打ちのめされても明日を信じて足掻く人々に肩を貸しエールを贈ることを選び、新海は震災に心をへし折られた人々(多くは若者)のそばに寄り添いおとぎ話を読み聞かせることを選んだ、というだけの違いである。
奇しくも震災以後を象徴する映画がほぼ同じタイミングで公開され、両方が邦画史に残る大ヒットとなったのも「そろそろあの傷を癒やすためエンタメとして昇華するのもありじゃない?」という、誰もが薄々感じていながら不謹慎の誹りを恐れ遠巻きにしていた主題と同時多発的に向き合い、揃って観客の心を射止められたが故である。庵野も新海も時代を敏感に感じ取るセンスと作家たる覚悟の持ち主であり、そこに優劣を見出そうとするのはナンセンスである。どちらをより支持するかは個人の好きずき以上でも以下でもない。
そしてなによりこのエントリは『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』を語るためにある。

自らの落とし前をつけるため第3村を去りヴンダーに戻ったシンジは、耐爆隔離室での軟禁に従うことでその身の処遇をミサトに、ヴィレに委ねる。その姿を見てサクラとミドリの感情は千々に乱れる。

本作でのヴィレ各クルーの描写はいずれも最低限ながら効果的にキャラクターに深みを与えていた。Qでもシンジに明確な敵意を隠さなかったミドリがシンジに銃口を向ける。しかし「相手は子供であり同情の余地がある」というスミレの主張が引き金にかけた指を震えさせる。いっぽうサクラは自分にとってのヒーロー(思い返せば序でシンジを殴ったトウジを幼いサクラが「家族を救った英雄を」と叱ってもいた)であり、同時に両親を奪った仇でもあるシンジへの感情の持って行き場を失い泣き叫びながら引き金を引いてしまう。
結局銃弾はシンジを庇ったミサトに命中するわけだが、この間シンジは狼狽えも命乞いもせず、ただ自分をエヴァに乗せてほしいと嘆願する。ここで彼女たちの銃弾に倒れるならそれが自分が引き起こした全ての落とし前であり甘んじて受け入れる、という覚悟の表れであろう。
同時にミサトにも覚悟があった。息子リョウジの生きる世界を守る、そしてシンジを守るためならどんな困難も乗り越えてみせるという覚悟である。
自分が愛した男の名を息子につける選択は、ともすれば親の因果を子に背負わせるかのようにもとられるかもしれない。しかし両親の出自を隠し通す覚悟と併せて考えた時、次世代への希望を「リョウジ」の名に託す想いの真摯さが浮き彫りになる。我が子を避けるミサトとゲンドウが共に似たようなゴーグルで目元を隠しているのは悲しい皮肉である。
Qでミサトがシンジに冷たくあたった理由を「自分が情に流されるとろくなことにならない」と語る点に関しては、Qでの描写と照らし合わせるといささか後付けの正当化にも感じるが、同時にリョウジに対しても痛みを抱えているとなれば納得せざるを得ない。これら一連のキャラ立てを辻褄合わせと捉えるか、それとも再びミサトを好きになれる待ちに待った描写と捉えるかは好き嫌いの問題だろう。
二人の覚悟の前にミドリは「もう明日生きることだけ考えよう…」とサクラを宥め、シンジを赦すことを選ぶ。これも復讐心を捨てて「わずかでも前に進もうとする意思」と言える。

かつてテレビ版弐拾話でリツコはエヴァについて「ただのコピーとは違うわ。人の意思が込められているもの」と語った。
既存作品のパロディや引用しかできないと自己評価を下す庵野秀明が、せめて意思をこめてオリジナル作品「新世紀エヴァンゲリオン」を世に送り出したことについての言及、とメタ的には解釈される有名なセリフである。
だがテレビ版・旧劇場版で口にする「ヒトの意思」はその大部分が意思と呼ぶにはあまりにもキャッチボールの体をなしておらず、エゴと呼んだほうが差し支えなさそうなドッジボールだった。なにしろ上記引用のセリフが発せられるシーンも最後はミサトにビンタされて終わるのだ。
きっとその反省もあるのだろう、本作の、ひいては新劇場版の登場人物が発露する意思は常に覚悟と覚悟のぶつかり合い、受け止め合いに昇華されてきた。
相手の覚悟を知り、また相手も自分の覚悟を知って共に許し合い、前へ進む。

「許し」は間違いなく新劇場版の裏テーマのひとつであるはずだ。
また、「許し」とは「肯定」に繋がる。
これまでのエントリで繰り返し言ってきたように、序は「かつてエヴァを好きだった、今でも好きでいたい自分」を肯定し、破は「綾波やアスカを好きだったあの頃の自分」を肯定した。
ではQ+シンにおいて肯定されるものは何か。

それは紛れもなく「すべてのエヴァンゲリオン」の肯定である。

本作の英語副題”Thrice Upon a Time”はジェイムズ・P・ホーガンの小説「未来からのホットライン」の原題であるが、見てわかるとおり日本語で言う「昔々」にあたるイディオム”Once upon a time”のもじりなので直訳は難しい。
強引に訳すならば「単一時間(軸)上にある三度」といったところか。次第にスケールが大きくなり最後には世界の消滅さえ招きうる3つの事件をそれぞれとある技術の応用、そのまた応用で解決する「未来からのホットライン」のあらすじをそのまま言い表したフレーズである(ちなみにシン・ゴジラで石原さとみ演じるカヨコ・アン・パタースンの名はこの小説の登場人物アン・パタースンのオマージュ)。新劇場版に照らせば序・破・Qの3作というよりもさらに遡ってテレビ版・旧劇場版・新劇場版の3ジャンルを包含していると自分は考える。

さて、作品のファンは序・破によって肯定され救われた。
だが肝心の好意対象たる作品、テレビ版・旧劇場版の自己肯定感が低すぎた。
いわく難解、いわく残酷、いわく投げっぱなし。
後述する二次創作の隆盛もその自己肯定感の低さゆえであったと言える。
こうした言葉から「エヴァ」そのものが救われないことにはファンの居場所がないのだ。
彼らが両の足で立って「エヴァ」の(二次創作までも含めた)終わりを見届け、さようならを言えるようにする――それが新劇場版に残された最後の大仕事だったのだ。

そのためのお膳立てを務めるのが二人の少女、綾波とマリ(彼女の存在については後述する)である。

QでS-DATプレーヤーだけを残して初号機の中に姿を消した綾波は自らの意思で「碇くんがもうエヴァに乗らなくていいようにする」ため14年間その場に留まっていた。
こうした印象的なセリフを言いっぱなしにさせず、因果として丁寧に回収してゆく誠実さはテレビ版・旧劇場版と新劇場版の大きな違いと言えるし、調整されたパーソナリティであろうとも、そこに芽生え育まれた感情は本物であるという確信を観る者に与える名シーンであった。

マイナス宇宙で量子的存在となったゲンドウと、綾波の助力で初号機を奪い返したシンジ。二人は次々と情景を移して互いの槍を交える。
量子というよりもメタ存在となったと言った方がより正しいだろうか。
ここで二人はかつての対立が非生産的であったことを認める。セリフは直接的には序・破・Qで起きた数々の出来事を振り返っているのだが、同時にこれらの言葉でテレビ版・EoEをもメタ視点から振り返っているのは露骨にBANKを多用する画面構成からも一目瞭然だった。そう、エヴァといえばBANKなのだ。元来手抜きと揶揄されるBANKを文脈として楽しめる芳醇さを感謝しなければならない。
そして二人は「自分たちに必要なのは暴力による解決ではない」との結論に達する…というか、むしろゲンドウが誘導する。ここが――「まだわからないのか!」のセリフあたりから以後が――個人的に今回最も意外な点であった。これまで頑なに息子と向き合うことを拒んできた碇ゲンドウが事ここに至っての心変わり。父を乗り越えろ、必要なら父を殺せ、殺してくれとのSOSであるのではとさえ自分は解釈した。
だがシンジの選択は対話であった。

実際シンジは最初からゲンドウとの対話を切望しつづけてきた。「どうなの、父さん!?答えてよ!?」とずっと叫びつづけてきた。そして視聴者もまた「一旦話し合いしようよ…」とずっとモヤモヤしつづけてきた。
25年越しの対話の始まりである。

「エヴァの呪縛」とは25年間にわたり我々視聴者にかけられた呪縛も意味する。この呪縛を解くにあたってEoEで採られた方法論は「お前達がずっと謎だ謎だと言ってきたこれの正解はこれだ!それの回答はこうだ!わかったらもう近寄ってくるな!」という拒絶の答え合わせだった。
その強烈な呈示がさらなる「エヴァの呪縛」となり、ある者は口を噤んでエヴァを語らなくなり、ある者は二次創作へ安住の地を求め彷徨った。
新劇場版の存在そのものを否定しつづけ、昔に戻れと庵野夫妻の離婚さえ望む過激派までをも生み出してしまったのはあまりにも悲しすぎる行き違いだっただろう。

では本作で真っ向からの対話を、それもテレビ版とは正反対にシンジの側から問いかけ、共に答えを探り当て、すべてのキャラクターが課せられていた役目、疑いもしない、するはずもない「設定」から解放されそれぞれの自分を模索しに旅立つ過程を見せエヴァの呪縛を解く方法を採ったのはEoEへの反省から学んだ結果だろうか?EoEの結末を否定するのが本作のやろうとしていることだったのだろうか?「みんなも結婚するといいよ」という陳腐な一言が言いたいだけだったのだろうか?

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