細かすぎて伝わらないシン・ゴジラの好きなところが細かすぎるのでできるだけ細かく伝える試み

『細かすぎて伝わらないシン・ゴジラの好きなところ選手権』というハッシュタグがtwitterで人気ですよね。
空条さんも今のところレーザーIMAX8回、ULTIRA1回、立川爆音1回、バルト9で1回、4DXで1回と合計12回見てるんで山ほどありますそういうやつ(見すぎ)。今夜は発声可能上映ライブビューイングを梅田で見る予定です(病気)。
今回はその中でも特に好きなシーンをランキング形式で挙げてみようかという。
ほんとはベストテンまで絞りたかったんだけど無理だった。ベスト12です。

第12位:空自が日本語イントネーションでやり取りする「タクシートゥーホールディングポイントB1、ランウェイ10」「ランウェイ10、クリアーフォーテイクオフ」の管制交信

はい「できるだけ細かく伝える試み」と題してますが最初っからもうこれ理屈じゃないですね。日本語でやりとりされる陸自の交信とのコントラストが最高。なんたって陽炎の向こうでタキシング中のF-2を超望遠でとらえた画がかっちょよすぎ。
このエントリ書いてて思い出したんだけど初日の初回に見ていて「あっこの映画ここからどう転んでも面白いやつだ!!」と確信したのはまさにこの三沢基地が映るタイミングでした。

もちろんJDAM投下時の「クリアードアタック、クリアードアタック。ファイア…レディ…ナウ。ボムズアウェイ。レーザーオン。レイジング」もステキすぎます。まあこのへん言いたかっただけですけど。
でもこの作品の自衛隊交信セリフっていちいち言いたくなるよね「特建マルヒト、アメノハバキリマルヒト。特建ヒトマル各車・アメノハバキリヒトマル各車ブーム伸展開始。ヒトニイからヒトヨンはBP-2進入後単縦陣より散開、戦闘陣に移行せよ」とか。

あとこのシーン直前の「多摩川を絶対防衛線と想定するB-2号、タバ作戦を発動する」から「Black Angels (Feb_10_1211) / 作戦準備」がかかるタイミング!そして大河内総理の「今より武器の無制限使用を……許可します!!」から「Fob_01 / タバ作戦」がかかるタイミング!!

第11位:議事録が残る閣僚会議で羽田全便欠航の理由について「人命軽視」と野党につつかれるのを嫌がった秘書にわざわざ人命を重んじるニュアンスで訂正させられる柳原国交大臣

「以下、中略」でブツ切りにされるシーン。
ここの国交大臣の発言、2~3回目ぐらいまでは刻々と変化する情勢で措置が変更されたので訂正してるんだと思い込んでたんですが、後日よくよく聴いてみると羽田の全便欠航という決定そのものは変わっていなくて、その理由が言い換えられてるだけだと気づきました。そりゃ中略もするわ。
こういう細かな箇所で「日本人のイメージする閣僚」に寄り添った描写を積み重ねることであたかも作品全体がリアルであるかのように錯覚させる手法、さすがです(後述)。

ちなみに4DXで見ているとこのシーンに限らず会議の場面ではカメラのスローPANにあわせて微妙に座席が傾斜していくのがちょっと面白かったです。

第10位:「うちの課長補佐が失礼なことを申しておりますが…」と菊川環境大臣からやんわり窘められた尾頭さんにメンチ切る関口文科大臣を中心に据えた無駄のない絶妙なレイアウト

口で言っても伝わらないから描いたった。

第9位:自衛隊初の防衛出動下命を報じるレポーターの後ろを通り過ぎていく宅配ピザのバイク

数多い日本人あるあるシーンの中でも指折りの意地悪な描写。
「テレビは災害関連報道しかやってないしスーパーに行こうにも行けないしピザでも取るか…」ってなったことない人だけが石を投げよ。

ところでこの辺のシーンに映像バグらしきものがあるのに気づいてしまったのでこの場を借りて報告。

上記ニュース映像の左上に表示された時計が「13:02」。
このあと場面転換して市ヶ谷・防衛省内での幕僚会議のシーンに映り込む赤いデジタル時計の表示が「13:07:45~50」あたり。
この会議で三自衛隊の統合運用を具申する案が挙がり、防衛大臣に報告があがります。
これについて閣議決定がなされ、いよいよ腹の据わった大河内総理から「………わかった」と承諾の声が出る。
そしてまた場面は変わり木更津駐屯地を飛び立つAH-1Sの交信内容が「木更津離陸ヒトサンマルハチ。現着予定時刻ヒトサンニイマル」となってます。

ニュース映像に関しては防衛出動下命からその報道まで30分ないし小一時間ほどのタイムラグがあったと解釈できないこともないですが、市ヶ谷の時計が進みすぎているのは事実。
ソフト化に際してここに修正がかかるかどうかが個人的な見どころになりそうです。おい見ろマニアだ逃げろ!!

更に余談だけどこの閣議決定を契機に大河内総理の返事が「わかった」から「わかっている」に変化するのすっごい大事ですよね。

第8位:ゴジラが地球上で最も進化した生物である事実が確定し知識欲が満たされた尾頭さんの貴重な微々々笑

正しくは「これでゴジラがこの星で最も進化した生物であるという事実が確定しました」。
このわずかな表情の変化に気づいたのがたしか7~8回目ぐらいの鑑賞だったんだけど、一見すると鉄面皮キャラの尾頭さんにもちゃんとその時その時で感情の動きがあるんだとわかってなかなかいい役作りをするねと感心したもんです。
後の発声可能上映に登壇した市川実日子本人も「でも、ひそかに尾頭のなかでは、表情が一応あるんですよ。『これでゴジラがこの星で最も進化した生物という事実が確定しました』って言うところは、ちょっとうれしいんですよね、尾頭的には。生物好きなので」と言及してました。ちゃんと伝わってるよ尾頭さん!

さて、この「人間が万物の霊長だなんて烏滸がましくないか?」という問いかけは「ふしぎの海のナディア」でも巨大なオウム貝やネモ船長の友人である白鯨との出会いを通して昔から庵野がやり続けてきたテーマの一つでもあります。30年前から自分のやりたいことに一切ブレがないカントクくん。

第7位:ゴジラの冷却機構が未発達だったことを間准教授が看破、そこから矢口プランの骨子が固まり「名前はともかく、進めてくれ」までの一連のレイアウト

ここについてはエヴァ厨の妄言なんで話半分でいいです(ここまでだって6割は妄言だがそんなことは知らない)。
ここのシーン、人物の配置のクセにただならぬ鶴巻和哉臭を嗅ぎとったのは自分だけかしら。特に安田のカットから尾頭さん+後ろで志村がメモを取っている広角気味のカットへの流れ。
11月に延期されてしまった「ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ」に収録予定の絵コンテで答え合わせするのが楽しみですよ。

巨災対メンバーの中で個人的にゴジラ凍結への貢献度が高いと評価している人物が資源エネルギー庁の立川(野間口徹)であります。
顔合わせの時にはとてもいいタイミングで巨大不明生物のエネルギー源への疑問を提示することで尾頭さんから核分裂の仮説を引っ張り出しましたし、間准教授が「冷えてないんだ」との結論を導き出すきっかけになったのも彼がふと第3形態が東京湾へ姿を消した理由への疑問を口にしたからでした。両方ともいずれ誰かが辿り着いた疑問かもしれませんが彼の的確なアシストパス能力はやっぱり見逃せない。

第6位:除染を兼ねて労をねぎらうように洗車されてる自衛隊車輌

本作のエピローグの中で3番目に好きなシーン。
この映画は3.11を通して日本人の大半が感じたであろう恐怖の最大公約数を映像化したものだと個人的には思ってるんですが、3.11の事態を収拾する現場でそれぞれの職分の中で全力を尽くしたであろう「名もなきヒーロー達」、そして彼らを支えたであろう「はたらくくるま」への賛歌がこのわずか数秒のカットにこめられている気がして大好き。
軍人などが肩を抱き合って「俺達よくやったよな!!」とやりあっている場面はこれまでの映画でやドラマでもよく見られましたが、その車輌にスポットを当てた描写って意外と少ないんじゃないかしら。
そういえばガルパンでも試合後にみんなでわいわい洗車したり自動車部が夜中まで整備してるシーンが味わい深かったよね…。

本作で最も活躍したはたらくくるまといえば「キリン」の異名を持つ高圧ポンプ車やタンク車、ホイールローダーなどなどで編成された特殊建機車輌中隊と、なんといっても無人在来線爆弾(E233系・E231系車両流用)。
劇中ではクライマックス最大の笑いどころとして用意されたギミックではありますが、自衛隊がヤシオリ作戦の概要を持ってきた時JR車両整備のおじさんたちは一体どんな気持ちだったのか想像するだけで涙が出てきます。

第5位:避難所ではしゃぐ子供たちの様子を表情を失ったような顔で見ている中学生ぐらいの女の子

本作のエピローグの中で2番目に好きなシーン。これも3.11などの記憶が下敷きにあるから効いてくる系ですね。

画面のメインは手前でボール遊びをしている子供たちなんですが、ひとたび彼女の存在に気づいてしまうともう目が離せない。里見総理代行が言うように彼女も生活を、ひょっとするとそれ以上に大切なものを根こそぎ奪われ、あの避難所に身を寄せているのかもしれない。わずか3秒にも満たないほどのカットで様々なことを感じさせてくれる名場面の一つと言って過言ではないでしょう。

些か野暮な話になるけどこの描写、実はアニメではすっごく難しいんですよ。
アニメというやつはすべて「絵」であって、人間が何かの意思を持って描かないとそこに存在すらしえない。
ということは描かれた絵にはすべて何らかの意図がこもってしまう。情報の優先度という意味でそのシーンのメインと同等になってしまう。
つまり純然たる「モブ」を描くのって逆にものすごく注意が必要なんです。
上記のようなシーンで表情を失った顔を背後にぽんと描くと、その場面での主人公にあたるキャラが手前でどんなに派手な芝居をしていようとも「ああ、あそこに表情を失った女の子がいるな」と誰でも気づいてしまう。

よくマンガで顔が十字やのっぺらぼうで省略されているモブを見ますよね。あれには「手間を省く」以外に「余計な情報で読者の注意力を散らさせない」って意味があったりするんです。
最近のアニメでモブにCGが多用されているのには省力化とともにモブの情報を無機的にする意図もあると考えて間違いないでしょう。
また最近は凝った撮影を駆使してくるアニメも増えたのでボケを利用して情報のコントロールを行えるようになってきましたが、小さな芝居を「描く」ことの難しさはそれでも変わりません。

というわけでここはホノオくん風に言うと「ふふふ…ついに実写の撮り方を身につけたな庵野秀明!!」と感慨にふけることのできる重要なシーンなのであります。

第4位:立川に再集結、うなだれる巨災対メンバーの中で決然と前を見据える安田と矢口に挑みかかるかのように鋭い眼光を投げかける森課長

ことさらに家族愛だなんだといった描写に時間を割かない本作の中でツダカン演じる森課長にだけ妻子の存在を明確に表す描写が与えられています。この意味に自分が気づいたのはたしか4回目ぐらいになってようやくだった(といっても4回目を見たのが8/3だからまだまだ公開初週)んだけど、以後このシーンの最後に「では仕事にかかろう」と声をかける森課長にものすごく感情移入してしまい、準備中だった創作新刊をほっぽって描き上げたのが夏コミの新刊でした。

この映画では「登場人物が防災服に身を包む瞬間」というものに大きな意味づけがされているようにも感じます。
大河内総理の「防災服と原稿を用意してくれ」というセリフ、初見当時はつい笑っちゃいました。激甚災害が発生したからといって政治家連中が防災服を着ることに何の意味があるんだ、と鼻白む思いでニュース映像を見ていたせいです。もちろんこのシーンにはそうした風刺もこめられているんだとは思いますが、それ以上に「シン・ゴジラ」において防災服は政治家や閣僚たちにとっての戦闘服、もっと言えば防災服に袖を通すことで初めて巨大不明生物災害に対する当事者意識が生まれたのだという演出と考えられるのでは、と。

物語冒頭の矢口はアクアライン崩落の原因や水蒸気噴出との関連性について結論を急ぎ、(結果的に正しかったとはいえ)SNSにアップされた動画ひとつで海中に巨大な生物がいるのだと信じて疑いません。いみじくも赤坂先生が総理に進言するとおり、この場で内閣が注力すべきはそれらの事象の関連性や正体を突き止めることではなく、それによって寸断された交通網の復旧や付近住民の安全確保といった行政上の手続きです。

中盤までのスーツ姿の矢口には越権や思い上がりを感じさせるセリフが多く見られます。
裏設定によると矢口は山口県第3区という宇部興産のお膝元、全国でも指折りの保守王国出身。執務室に飾られた新幹線0系や蒸気機関車(おそらくC571「やまぐち」号)の模型は道路族として絶大な発言力を有していたであろう彼の父親の威光をにおわせています。ひょっとすると田中角栄なみの大物だったかも。
そうした出自が彼をして「この国はまだまだやれる」のように思い上がった、それでいてどこか他人事のような物言いをせしめているのかもしれません。

つまり矢口は総理や大臣たち、そして自身の後ろ盾だった東官房長官を喪って初めてこの災害の「当事者」になったと見ることができると考えます。
大田区の視察に同行した矢口は防災服姿でした。そこで巨大不明生物による被害を目の当たりにし、瓦礫の山に向かって手を合わせ祈りを捧げます。
これは現場で庵野から「好きにやってみて」と言われて自然と出た演技だったらしく、後に庵野から「この映画が矢口の成長物語になった」と言われたとのエピソードが矢口役の長谷川博己のインタビューで語られていました

立川で当事者の矢面に立ったばかりの矢口は自らの負っている重責に焦り、狼狽え、志村の些細な言動に声を荒らげました。泉に窘められ、自分がただの無力でやんちゃな若造だったと痛感します。
「日本がまだまだやれる」のではない、「日本のために自分たちがやるべきことがまだまだある」ことに気づき、日本いや世界の総力戦たるヤシオリ作戦に邁進していくわけです。
後半でも「諦めずに最後までこの国を見捨てずにやろう」「日本の未来を君たちに託します」といった如何にも政治家らしい言葉はさらりと出てくるわけですが、そこには以前ほどの驕りは感じません。政治家としての信念は変わらぬまま、内面の変化を経ての発言なのだとよくわかります。

安田にしてもそうです。霞ヶ関から避難するまでのスーツ姿の安田には矢口とはまた別種の他人事っぽさが漂っていました。しかし防災服姿になってからは明らかに顔つきが変わります。
更に言うなら国外退去の指示に逆らって日本の行く末を見届けると決めたカヨコも最後にはタイベックに身を包み、はっきりと当事者としてのスタンスを取っていましたね。

それはそれとしてこのあと里見総理代行の「あ~あ、伸びちゃったよぉ」のシーンを受けて「まあ、肚の内の読めんお人だからな」と呟く泉ちゃんが手持ち無沙汰げに結婚指輪をくるくるともてあそんでるのが個人的にかなり萌えポイント高いんですけどどうっすかね。

訊かれてもね。

第3位:里見総理代行からゴジラへの熱核攻撃を容認する特別立法成立を請われた赤坂先生の狼狽ぶり

赤坂先生=竹野内豊と里見総理代行=平泉成の迫真の演技が光る名シーン。シネスコサイズの画角が十二分に活かされています。自分が8回もレーザーIMAXをリピートした最大の理由がここにあります。

均等に情報を並べて画面全体を一つの塊として見せたり、場合によっては第10位で挙げたカットのように大きくシャッターすることで一部分を注視させたり、このシーンのように右端と左端に情報を配置したり、観客の視線を誘導できるのがシネスコサイズの面白いところです。たまに「映画館の大スクリーンは全体が見渡せない」と不満を漏らす人がいますが、一度で全体が見渡せないシーンを用意するのは映画の画面作りの手法の一つなんですよ。

国連決議を赤坂先生に告げるシーンで里見総理に1秒ほどのブレスが入る。
そのタイミングで赤坂先生は何を告げられているのか理解できないかのように2回ぱちくりとまばたきをする。
里見総理が左端で喋っている間の赤坂先生の表情は確かに画面に映ってはいるけれど、そこは想像に任せても構わない。
何故ならブレスの瞬間必ず観客の視線は赤坂先生に行くし、そこでまばたきの演技を入れれば充分なわけです。
レーザーIMAXのエグゼクティブシート付近に座ると誇張抜きで視界の左右いっぱいまでスクリーンが広がり、このシーンなんか初見当時は首を左右に振って見てしまいます。
見たいものを見るために何かが見えなくなるのを覚悟の上で首を振る楽しさ!見る側が情報の取捨選択を行う醍醐味はテレビ画面では絶対に味わえません。その結果取りこぼしてしまった情報が気になるならもう一度見に行けばいいんです。
まさかまだ見てないのにこのエントリ読んでるバカはいないと思いますが万が一にも実在するならこの映画をテレビ放送まで待つのは愚の骨頂だから少しでも大きなスクリーンでかかってるとこ見つけて今すぐ見に行けと言っときます。

第2位:宇宙大戦争マーチ

第11位で閣僚の描写を「作品全体がリアルであるかのように錯覚させる手法」と評しました。
よくこの映画を指して「災害対策のシミュレーション映画」だと言う人がいますがそれはちょっと違うんじゃないかと自分は思ってます。
確かに3.11で福島第一原発を襲った大津波は想定を大きく上回る規模だったかもしれませんが、地震あるいは津波と言った天災は充分に想定内であり、巨大不明生物に向かって言う「想定外」とは全く意味が違いますから。
それでもこの映画を見た人がそこまでのリアルさを感じ取ったのは何故か。メタファーとしての落とし込みが巧みだったのも勿論ですが、序盤でこれでもかというほど「頼りない政府」「機能しない法律」の描写を積み重ね日本人にとってのリアルに寄り添う努力を怠らなかったところに理由があると考えます。

序盤で行われていたのは「嗅いだ覚えのある匂いを漂わせる」リアルな空気の醸成であり、以後は「序盤の残り香が鼻の奥にあることを前提とした」リアリティある情景の演出だったんです。
そうすることで中盤以降の「理想的な閣僚、理想的な行政」にもさほどの違和感を抱かずに見れてしまう。そういう作りなんです。

ゴジラそのものの生物学的な裏付けもそうで、「陸に上がれば自重で潰れる」「巨大すぎる身体を維持できるエネルギー源がない」「神経伝達物質の速度では反射運動も満足に行えない」などの柳田理科雄的ツッコミにも「すでに自重を支えている」「体内に原子炉のような器官を備えている」「背びれ自体が脳の出先機関として自律的にフェイズドアレイレーダーのような役割を担っている」といった事実を突きつけ、周到に「リアリティある」先回りで手を打っています。

何故そんな演出方針を採ったのか。
それは「現実≪ニッポン≫対虚構≪ゴジラ≫。」をキャッチコピーにしつつ、実は中盤以降「現実」と「虚構」の役割が入れ替わっているから
その「入れ替わり」の根拠を以下に2つ述べます。

最初に尻尾が現れるシーンで「あれ…CGけっこうしょっぱいかも…」と感じた人は少なくないでしょう。自分がそうでした。
その後自分は呑川を遡上し蒲田に上陸した第2形態、品川を北上する第3形態で一気にリアリティを覚え、鎌倉に再上陸した第4形態の頃にはCGっぽさというものは全く感じなくなっていました。走る車内から見上げるように撮影されたゴジラのシーンではその迫力に圧倒されっぱなしでした。

CG WORLD2016年9月号掲載の竹谷隆之インタビューによると第2~第3形態の雛形製作は今年の4月とギリギリまで行われていたそうなので、それによって圧迫されたスケジュールからディテールのツメが甘くなったのでは…とも言われていますが、自分としては「進化するにつれてゴジラがだんだんと現実味を帯びてゆく」という演出なのだと考えます。
たしかにスケジュールがカツカツだったのも事実でしょうが、予算や時間が足りなくてもそれを演出として逆手に取ってしまう庵野のテクニックに関しては今さら例を挙げるまでもないでしょう。
これが第1、「映像」の根拠。

第2の根拠は「伊福部昭の曲の使い方」です。
劇中で初めて伊福部曲が用いられるのが品川での進化のシーン。ここで初代ゴジラの「ゴジラ上陸」がかかります。
次にかかるのが第4形態の鎌倉・稲村ガ崎上陸シーン。ここではキングコング対ゴジラの「ゴジラ復活す」がかかり、鎌倉を歩くゴジラの背後でかかるのがメカゴジラの逆襲より「ゴジラ登場」。
最後に使用される伊福部音楽がヤシオリ作戦開始直後、無人新幹線爆弾がゴジラに向かってゆくシーンで唐突にかかる宇宙大戦争マーチです。
そう、最後だけ伊福部音楽がゴジラではなく人間側につけられているんです

伊福部音楽が常に「虚構」サイドにつけられているのだと仮定すると必然的に宇宙大戦争マーチに乗って登場する新幹線爆弾は「虚構」サイドのキャラクターとなります。
最終局面で完全に「現実対虚構」の意味が逆転してしまった――すなわち「現実≪ゴジラ≫対虚構≪ニッポン≫」に入れ替わったと言えるでしょう。

この仮説の補強材料としてサントラ「シン・ゴジラ音楽集」のライナーノーツに掲載された鷺巣詩郎のコメントを挙げます。

このライナーノーツでは当初、伊福部音楽のステレオ化にあたって鷺巣詩郎は原曲の指揮の揺らぎをぴったり揃えるためわざわざ1拍ごと小数点以下第4位まで合わせたドンカマを用意し、その通りに完コピで演奏させた音を原曲に被せ擬似的に原曲をステレオ化する手法を採ったものの、ダビングの段階で庵野は原曲そのままモノラルで使用することにした…といった主旨のエピソードを読むことができます。
そんな中なぜか「ゴジラ登場」のみ2ループ目にステレオ補強版が収録されているんですが、これはもしかすると「ゴジラが現実に溶け込んだ瞬間」あるいは「現実と虚構が拮抗する瞬間」という意味がこめられているのかも知れません。サントラには総監修として庵野の名前がクレジットされていますからその可能性はゼロではないと考えます。

さて、これらを踏まえるとこの映画では一貫して現実が虚構に負けている構図がとられていることになります。

ヤシオリ作戦の成功で「災害」のメタファーたるゴジラに勝利した日本。
しかしそれは永田町・霞ヶ関を更地にし、
全世界のスパコンを並列につないで極限環境微生物の正体に迫り、
グローバルな協調でもってリソースをかき集め、
陸海空の三自衛隊の統合運用のもと米軍の協力を取り付け、
鉄道と土建の総力をも結集し、
世界政府に頭を下げながら、
ようやくもぎ取った束の間の勝利でした。
良く言えばロマン溢れる、意地悪に言えば到底あり得ない結末です。

虚構だから描ける、あり得ない結末。
作り手が「現実を打ち破るパワーが虚構にはある」と信じている。だからこの映画では虚構が常に現実を打ち負かしているんです。

でも自分のような日本人はそこにこの国の理想像を幻視せずにいられない。
臆面もなくロマンを語る無邪気さが解釈次第でプロパガンダ或いはワーカホリック礼賛と批判されてしまうのかもしれない。

ですが何かを発言すれば必ず右だ左だと囃し立てられる昨今、ここまで無邪気でいられるのはとりもなおさず庵野秀明という人物がシラケ世代・ノンポリ真っ只中の1960年生まれだからこそであるという事実をみんなオミットしてはいないでしょうか。

かつて「王立宇宙軍オネアミスの翼」を見た安彦良和がその「中身のなさ」と「なのに情熱だけはすごい」ところに衝撃を受け、自分たちの時代ではなくなったと感じた、なんてエピソードがありました。
「王立」の脚本・監督は山賀博之だから関係ない?そんなことはないです。前述したような中身のない空虚さこそ同世代である山賀や庵野らGAINAXのメンバーにとっての「リアル」だったんです。

何もかもに飽きて日々無気力に過ごすただ「死んでいない」だけの男達が「飽きるのにも飽きて(たしか氷川竜介の評だったと記憶してるんだけど思い出せない)」大それた事をやらかしてやろう(モテるし)と一念発起するのが「王立」の大まかなストーリーでした。
「王立」にも風刺的な描写は数多くあります。隣国との緊張から軍拡まっしぐらの国政、そのさなかで蔑ろにされる貧しい人々、ロケットで腹は膨れない…。
しかしこの映画にそれらに対する回答めいたものは全く提示されない。
国境の緊張が臨界に達していようが、自分の1日の給料のために瞽女の追いはぎが人を殺そうが関係ない。
俺たちゃ好きなことをやるんだ、他になんの取り柄も持たない連中なんだから。お前らも好きに争え。女を抱け。くだらない人生を謳歌しろ。
そんな映画です。そう、やっぱり30年前から何一つブレてないんです

ちょうどこのエントリを書いてる最中に通販で購入した島本和彦の同人誌「アンノ対ホノオ。」が届きました。
その中で島本はホノオくんの姿を借りて「宇宙大戦争マーチは『じょうぶなタイヤ』への原点回帰である」と看破していました。全くその通りだと思います。こんな文字数を費やしてる自分がまるでバカみたいです。

いつどんな時代でも庵野秀明という男は無邪気でブレない。
その無邪気さブレのなさにホノオくんは嫉妬し、また心酔しているんです。

ここまで筆舌尽くしてまだ右だ左だ喧しい向きには彼らの無邪気の骨頂たる「愛國戦隊大日本」を見てからものを言え、としか言いようがないです。

第1位:ラストシーンで矢口が一瞬だけ見せるカメラ目線

エピローグで1番好きなシーン。
第10位同様わかりやすいようにと描いてみたんですが逆に良さがまるで伝わらないものしか描けなかったからボツにしました。

凍結したゴジラを望む科学技術館屋上の手すりに身体を預け「牧と同じく、好きにすれば」と残し去ってゆくカヨコを目で追い、中空を見つめ、カット尻のわずか2秒足らず矢口の視線はカメラのこちら側にいる観客を見つめてきます。

凍結ゴジラを画面中央に配したレイアウト。地震や原発だけではない、今日も明日も災害とは共存していかざるを得ない、そんな災害大国たる日本の背負う宿命を象徴するかのようなシーン。

「俺も好きにした。さあどうする、スクリーンの向こう側の君らは好きにできるか?」と問いかけられているような気がしてきます。
ですが庵野のことだからきっと信じています。自分と同じように「好きを通した」クリエイターが後に続く日が来ることを。
だってそうでもなければグローリー丸に残された遺品にわざわざ折り鶴なんていう日本人にとっての「祈り」のメタファーの典型を選びはしないでしょ。

前のエントリ『シン・ゴジラという決意表明【ネタバレ多数】』で「この映画は新劇ヱヴァQで3.11という現実のディザスター描写に自分のイマジネーションでは太刀打ちできなかったことへのリベンジであり、同時にイマジネーションだけで『風立ちぬ』の震災描写をやってのけた宮崎駿へのアンサーである」といった主旨の文章を寄せました。
その後「エキレビ」でも多根清史氏が「憑き物落とし」と評していましたが、やはりこのシン・ゴジラというやつはおよそモノ作りに関わる全ての日本人が3.11から5年あまりを経た今だからこそ見るべき映画である、とこのシーンだけを論拠に断言できる気にもさせられる最高のカットだと思います。

ほんとに最高。



最後までおつきあいありがとうございました。
夏コミの拙作シン・ゴジラ本『巨大不明生物災害罹災者鎮魂の碑』あとがきに寄せた文章を再掲して終わってみます。

私は好きにした。君らも好きにしろ。

作中で何度か繰り返されるこの台詞、実はこれによく似た台詞が庵野の過去作にもあります。
それは『トップをねらえ!』第5話でユングが言う「人は自分と同じ人生を歩めない」の一言。
ユングの享楽的とも言える人生観を表したにすぎないと思っていたこの台詞が本当のところは庵野自身の人生観だったと『シン・ゴジラ』を見てようやく気づきました。

矢口やカヨコたちには与り知らぬ何かを「好きにした」牧吾郎元教授。
彼がゴジラを生み出したのか、それとも呼び寄せたのか、あるいは彼自身がゴジラになったのか。
観客である自分たちにもその答えはわかりません。しかしこの言葉が神=監督自身から矢口ら登場人物へのメタ的メッセージであるとすれば、まさにゴジラ最新作の監督役を呼び寄せ、彼の中にある「ゴジラ観」を見つめなおし『シン・ゴジラ』という新たなゴジラを生み出した庵野秀明の生き様そのものを端的に表現しているとも解釈できるように思います。

このメッセージを受けてカヨコは「でもこの国で好きを通すのは難しい」と述懐します。
矢口は答えます。「ああ、僕ひとりじゃな」
野心家だが情には篤く顔が広い、矢口が「好きを通す」うえで外せない盟友・泉修一。
庵野自身にも全く同じ立ち位置のパートナーがいます。
そう、樋口真嗣です。

30年来の盟友である樋口は『ナディア』以後ほとんどの庵野作品で現場を共にしてきました。
この期間中、樋口は樋口で『平成ガメラ』シリーズをはじめとする数多くの映画作品を監督し、すでに日本特撮界の歴史を語る上でのキーパーソン的な地位を確立しています。
同時に樋口もまた近年の製作委員会方式の弊害を実感してもいました。スポンサーや広告代理店、芸能事務所からの横槍、ゴリ押しで現場は混乱。思い通りのモノを作りとおせることのほうが稀でした。
それでも彼は第一線で働き続けました。凡作・駄作の汚名を良しとし、いつの日か必ず「好きを通す」ために顔を売りコネを広げました。そして遂に雌伏の日々は終わりを告げます。
盟友・庵野秀明が持ってきた『シン・ゴジラ』の脚本に心底惚れ込んだ樋口は「ゴジラでなくてもとにかくこのホンが撮りたかった」と語っています(「ゴジラ解体全書」宝島社)。
庵野と樋口、二人の「好き」が詰まったこの脚本を全力で守るべく樋口は東奔西走。さいわい東宝の単独出資であったとはいえ12年ぶりの日本産ゴジラ最新作。やはり恋愛要素の強化など横槍は絶えません。おそらく樋口はこの脚本を守り抜くためにこれまで培ってきた人脈や信用を全て注ぎ込んだに違いありません。むしろこの日のためにそれらはあったと言っても過言ではないかもしれません。
東宝プロデューサー。山内章弘の尽力もあり、庵野の脚本は守り通されました。

この映画を見て簡単に「日本映画の復権だ」「ハリウッドに太刀打ちできる」などと調子づく人もいるようですが、自分には到底そうは思えません。
庵野が、樋口が「好きを通す」ために払ってきた血を吐くような努力と研鑽を思うと、たまさか同じ日本人の功績だからと言って我が事のように浮かれ騒ぐことはできません。
自分にできるのはただ彼らの「好き」の塊に触れ、咀嚼し、blogやtwitterに駄文を書き散らし薄っぺらい同人誌を作って妄想欲を満たす程度がせいぜいです。

「私は好きにした。君らも好きにしろ」

この言葉に、不寛容な社会の中でも好きを貫き通すことは不可能ではない、希望を捨てず努力を怠らないでほしいとの次代への願いとともに

「私ほど好きにできたものはいない。やれるもんならやってみろ」

という勝ち誇りのニュアンスも感じ取ってしまうのは穿ちすぎでしょうか。

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