表現規制条例可決の夜に

新刊作業真っ只中にきちんとしたエントリとして書き上げる時間はさすがにとれないのでツイートのまとめです。twitter始めてもツイートまとめだけでエントリでっち上げるのは止そうと思ってたんだけど色々な意味で場合が場合なんでどうかご容赦のほど。

以下12/16の午前2時30分ごろから4時ごろまでのツイートより。一部言い回し・リンクなど修正してます。

・照らすべき側面の殆どがグレーかつ流動的なせいで問題の重心が定まってない・定められないのが一番つらいんだよな。旗印である「表現の自由を守りたい」は問題の重心を貫いてはいるものの中心ではなく、強引に白黒を決めさせられる場に問題全体を持ち上げやすいよう吊り下げてる糸のようなもの。

・相手もそのへん見抜いてるから「表現の自由を振りかざせば何を描いてもいいと言うのか」とレトリックで攻めてくる。

・でも表現の自由とはそういうことじゃないんだ。何かに触れてけしからんと言うことそれ自体もまた個人の感情に基づいた表現であり、送り手もその自己表現を尊重し甘受する。

・だが政府に「感情」があってもらっては困る。政府の表現とは即ちファシズムだから。

・描きたいと思う感情、読みたい、読みたくない、読ませたくない、全ての感情の尊重、それこそが「表現の自由」なんだと自分は思う。

・つまり表現規制は作家の自由を奪うばかりでなく受け手の自由意志すらも制限しうるものなのだと考えてほしい。

・本を焼く国はいずれ人を焼く、とは物理的な話だけではない。何を読み何を読まないか選ぶ権利を奪われた人の心はぶすぶすと焦げ付いていくだろう。

・自分が気に入らないものを為政者が代わりに潰してくれて溜飲を下げている人もいるだろう。しかし為政者が次に潰しにかかるのがあなた自身でないとは限らないと覚悟だけでもしておいたほうがいい。

・為政者に歯向かうのが必ずしも表現者の使命とは思っていない。だが表現者は為政者の道具であっては絶対にならない。そこに自覚の有無は関係ない。

・内田樹氏のblogに「有害な表現は定義しようにもトートロジーに陥る」とあるが、有害な表現がひとつだけあるとすればそれは「プロパガンダ」だろう。 『非実在有害図書』――内田樹の研究室

・言わせてもらうなら実在世界の写真にでっち上げの記事をつけて売る女性週刊誌こそ世の母親を扇動するプロパガンダ、有害な表現だ。青山卒で普段とても理性的な自分の母でさえ息子の姿より女性週刊誌の記事を基準にしかけたことが一度だけある。

・まあ当時の自分は誰が見ても将来を心配されて当たり前のゴクツブシだったから仕方ないとも言えるんだけどな。

・免疫形成のためだけでなく、そこから生まれるであろう保護者との対話のためにも、子供には良い悪い色んな経験をさせるべきだと思う。表現を規制したいならむしろ報道の皮をかぶり知る権利を笠に着ていい大人の認識を歪ませる似非ジャーナリズムをこそ規制すべきだ。

・と、これは極論。「有害な表現」を定義可能と論証してしまえば危うくなるのはこちらの立場だからね。

・結局は受け手が賢くなるのが一番なんですよ。で、賢くなるためにはやはり様々な表現に触れ、それが自身の価値観に照らしてどうなのかを常に考えることが不可欠。

・政府にとって一番厄介なのは有害な表現でもなければ親の期待を裏切る子供でもない。賢い国民なんです。今回の条例によって国民は賢くなるチャンスの一つを確実に奪われたんです。

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