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-新劇場版-

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細かすぎて伝わらないシン・ゴジラの好きなところが細かすぎるのでできるだけ細かく伝える試み

『細かすぎて伝わらないシン・ゴジラの好きなところ選手権』というハッシュタグがtwitterで人気ですよね。
空条さんも今のところレーザーIMAX8回、ULTIRA1回、立川爆音1回、バルト9で1回、4DXで1回と合計12回見てるんで山ほどありますそういうやつ(見すぎ)。今夜は発声可能上映ライブビューイングを梅田で見る予定です(病気)。
今回はその中でも特に好きなシーンをランキング形式で挙げてみようかという。
ほんとはベストテンまで絞りたかったんだけど無理だった。ベスト12です。



第12位:空自が日本語イントネーションでやり取りする「タクシートゥーホールディングポイントB1、ランウェイ10」「ランウェイ10、クリアーフォーテイクオフ」の管制交信

はい「できるだけ細かく伝える試み」と題してますが最初っからもうこれ理屈じゃないですね。日本語でやりとりされる陸自の交信とのコントラストが最高。なんたって陽炎の向こうでタキシング中のF-2を超望遠でとらえた画がかっちょよすぎ。
このエントリ書いてて思い出したんだけど初日の初回に見ていて「あっこの映画ここからどう転んでも面白いやつだ!!」と確信したのはまさにこの三沢基地が映るタイミングでした。

もちろんJDAM投下時の「クリアードアタック、クリアードアタック。ファイア…レディ…ナウ。ボムズアウェイ。レーザーオン。レイジング」もステキすぎます。まあこのへん言いたかっただけですけど。
でもこの作品の自衛隊交信セリフっていちいち言いたくなるよね「特建マルヒト、アメノハバキリマルヒト。特建ヒトマル各車・アメノハバキリヒトマル各車ブーム伸展開始。ヒトニイからヒトヨンはBP-2進入後単縦陣より散開、戦闘陣に移行せよ」とか。

あとこのシーン直前の「多摩川を絶対防衛線と想定するB-2号、タバ作戦を発動する」から「Black Angels (Feb_10_1211) / 作戦準備」がかかるタイミング!そして大河内総理の「今より武器の無制限使用を……許可します!!」から「Fob_01 / タバ作戦」がかかるタイミング!!



第11位:議事録が残る閣僚会議で羽田全便欠航の理由について「人命軽視」と野党につつかれるのを嫌がった秘書にわざわざ人命を重んじるニュアンスで訂正させられる柳原国交大臣

「以下、中略」でブツ切りにされるシーン。
ここの国交大臣の発言、2〜3回目ぐらいまでは刻々と変化する情勢で措置が変更されたので訂正してるんだと思い込んでたんですが、後日よくよく聴いてみると羽田の全便欠航という決定そのものは変わっていなくて、その理由が言い換えられてるだけだと気づきました。そりゃ中略もするわ。
こういう細かな箇所で「日本人のイメージする閣僚」に寄り添った描写を積み重ねることであたかも作品全体がリアルであるかのように錯覚させる手法、さすがです(後述)。

ちなみに4DXで見ているとこのシーンに限らず会議の場面ではカメラのスローPANにあわせて微妙に座席が傾斜していくのがちょっと面白かったです。



第10位:「うちの課長補佐が失礼なことを申しておりますが…」と菊川環境大臣からやんわり窘められた尾頭さんにメンチ切る関口文科大臣を中心に据えた無駄のない絶妙なレイアウト

口で言っても伝わらないから描いたった。





第9位:自衛隊初の防衛出動下命を報じるレポーターの後ろを通り過ぎていく宅配ピザのバイク

数多い日本人あるあるシーンの中でも指折りの意地悪な描写。
「テレビは災害関連報道しかやってないしスーパーに行こうにも行けないしピザでも取るか…」ってなったことない人だけが石を投げよ。

ところでこの辺のシーンに映像バグらしきものがあるのに気づいてしまったのでこの場を借りて報告。

上記ニュース映像の左上に表示された時計が「13:02」。
このあと場面転換して市ヶ谷・防衛省内での幕僚会議のシーンに映り込む赤いデジタル時計の表示が「13:07:45〜50」あたり。
この会議で三自衛隊の統合運用を具申する案が挙がり、防衛大臣に報告があがります。
これについて閣議決定がなされ、いよいよ腹の据わった大河内総理から「………わかった」と承諾の声が出る。
そしてまた場面は変わり木更津駐屯地を飛び立つAH-1Sの交信内容が「木更津離陸ヒトサンマルハチ。現着予定時刻ヒトサンニイマル」となってます。

ニュース映像に関しては防衛出動下命からその報道まで30分ないし小一時間ほどのタイムラグがあったと解釈できないこともないですが、市ヶ谷の時計が進みすぎているのは事実。
ソフト化に際してここに修正がかかるかどうかが個人的な見どころになりそうです。おい見ろマニアだ逃げろ!!

更に余談だけどこの閣議決定を契機に大河内総理の返事が「わかった」から「わかっている」に変化するのすっごい大事ですよね。



第8位:ゴジラが地球上で最も進化した生物である事実が確定し知識欲が満たされた尾頭さんの貴重な微々々笑

正しくは「これでゴジラがこの星で最も進化した生物であるという事実が確定しました」。
このわずかな表情の変化に気づいたのがたしか7〜8回目ぐらいの鑑賞だったんだけど、一見すると鉄面皮キャラの尾頭さんにもちゃんとその時その時で感情の動きがあるんだとわかってなかなかいい役作りをするねと感心したもんです。
後の発声可能上映に登壇した市川実日子本人も「でも、ひそかに尾頭のなかでは、表情が一応あるんですよ。『これでゴジラがこの星で最も進化した生物という事実が確定しました』って言うところは、ちょっとうれしいんですよね、尾頭的には。生物好きなので」と言及してました。ちゃんと伝わってるよ尾頭さん!

さて、この「人間が万物の霊長だなんて烏滸がましくないか?」という問いかけは「ふしぎの海のナディア」でも巨大なオウム貝やネモ船長の友人である白鯨との出会いを通して昔から庵野がやり続けてきたテーマの一つでもあります。30年前から自分のやりたいことに一切ブレがないカントクくん。



第7位:ゴジラの冷却機構が未発達だったことを間准教授が看破、そこから矢口プランの骨子が固まり「名前はともかく、進めてくれ」までの一連のレイアウト

ここについてはエヴァ厨の妄言なんで話半分でいいです(ここまでだって6割は妄言だがそんなことは知らない)。
ここのシーン、人物の配置のクセにただならぬ鶴巻和哉臭を嗅ぎとったのは自分だけかしら。特に安田のカットから尾頭さん+後ろで志村がメモを取っている広角気味のカットへの流れ。
11月に延期されてしまった「ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ」に収録予定の絵コンテで答え合わせするのが楽しみですよ。

巨災対メンバーの中で個人的にゴジラ凍結への貢献度が高いと評価している人物が資源エネルギー庁の立川(野間口徹)であります。
顔合わせの時にはとてもいいタイミングで巨大不明生物のエネルギー源への疑問を提示することで尾頭さんから核分裂の仮説を引っ張り出しましたし、間准教授が「冷えてないんだ」との結論を導き出すきっかけになったのも彼がふと第3形態が東京湾へ姿を消した理由への疑問を口にしたからでした。両方ともいずれ誰かが辿り着いた疑問かもしれませんが彼の的確なアシストパス能力はやっぱり見逃せない。



第6位:除染を兼ねて労をねぎらうように洗車されてる自衛隊車輌

本作のエピローグの中で3番目に好きなシーン。
この映画は3.11を通して日本人の大半が感じたであろう恐怖の最大公約数を映像化したものだと個人的には思ってるんですが、3.11の事態を収拾する現場でそれぞれの職分の中で全力を尽くしたであろう「名もなきヒーロー達」、そして彼らを支えたであろう「はたらくくるま」への賛歌がこのわずか数秒のカットにこめられている気がして大好き。
軍人などが肩を抱き合って「俺達よくやったよな!!」とやりあっている場面はこれまでの映画でやドラマでもよく見られましたが、その車輌にスポットを当てた描写って意外と少ないんじゃないかしら。
そういえばガルパンでも試合後にみんなでわいわい洗車したり自動車部が夜中まで整備してるシーンが味わい深かったよね…。

本作で最も活躍したはたらくくるまといえば「キリン」の異名を持つ高圧ポンプ車やタンク車、ホイールローダーなどなどで編成された特殊建機車輌中隊と、なんといっても無人在来線爆弾(E233系・E231系車両流用)。
劇中ではクライマックス最大の笑いどころとして用意されたギミックではありますが、自衛隊がヤシオリ作戦の概要を持ってきた時JR車両整備のおじさんたちは一体どんな気持ちだったのか想像するだけで涙が出てきます。

第5位:避難所ではしゃぐ子供たちの様子を表情を失ったような顔で見ている中学生ぐらいの女の子

本作のエピローグの中で2番目に好きなシーン。これも3.11などの記憶が下敷きにあるから効いてくる系ですね。

画面のメインは手前でボール遊びをしている子供たちなんですが、ひとたび彼女の存在に気づいてしまうともう目が離せない。里見総理代行が言うように彼女も生活を、ひょっとするとそれ以上に大切なものを根こそぎ奪われ、あの避難所に身を寄せているのかもしれない。わずか3秒にも満たないほどのカットで様々なことを感じさせてくれる名場面の一つと言って過言ではないでしょう。

些か野暮な話になるけどこの描写、実はアニメではすっごく難しいんですよ。
アニメというやつはすべて「絵」であって、人間が何かの意思を持って描かないとそこに存在すらしえない。
ということは描かれた絵にはすべて何らかの意図がこもってしまう。情報の優先度という意味でそのシーンのメインと同等になってしまう。
つまり純然たる「モブ」を描くのって逆にものすごく注意が必要なんです。
上記のようなシーンで表情を失った顔を背後にぽんと描くと、その場面での主人公にあたるキャラが手前でどんなに派手な芝居をしていようとも「ああ、あそこに表情を失った女の子がいるな」と誰でも気づいてしまう。

よくマンガで顔が十字やのっぺらぼうで省略されているモブを見ますよね。あれには「手間を省く」以外に「余計な情報で読者の注意力を散らさせない」って意味があったりするんです。
最近のアニメでモブにCGが多用されているのには省力化とともにモブの情報を無機的にする意図もあると考えて間違いないでしょう。
また最近は凝った撮影を駆使してくるアニメも増えたのでボケを利用して情報のコントロールを行えるようになってきましたが、小さな芝居を「描く」ことの難しさはそれでも変わりません。

というわけでここはホノオくん風に言うと「ふふふ…ついに実写の撮り方を身につけたな庵野秀明!!」と感慨にふけることのできる重要なシーンなのであります。



第4位:立川に再集結、うなだれる巨災対メンバーの中で決然と前を見据える安田と矢口に挑みかかるかのように鋭い眼光を投げかける森課長

ことさらに家族愛だなんだといった描写に時間を割かない本作の中でツダカン演じる森課長にだけ妻子の存在を明確に表す描写が与えられています。この意味に自分が気づいたのはたしか4回目ぐらいになってようやくだった(といっても4回目を見たのが8/3だからまだまだ公開初週)んだけど、以後このシーンの最後に「では仕事にかかろう」と声をかける森課長にものすごく感情移入してしまい、準備中だった創作新刊をほっぽって描き上げたのが夏コミの新刊でした。

この映画では「登場人物が防災服に身を包む瞬間」というものに大きな意味づけがされているようにも感じます。
大河内総理の「防災服と原稿を用意してくれ」というセリフ、初見当時はつい笑っちゃいました。激甚災害が発生したからといって政治家連中が防災服を着ることに何の意味があるんだ、と鼻白む思いでニュース映像を見ていたせいです。もちろんこのシーンにはそうした風刺もこめられているんだとは思いますが、それ以上に「シン・ゴジラ」において防災服は政治家や閣僚たちにとっての戦闘服、もっと言えば防災服に袖を通すことで初めて巨大不明生物災害に対する当事者意識が生まれたのだという演出と考えられるのでは、と。

物語冒頭の矢口はアクアライン崩落の原因や水蒸気噴出との関連性について結論を急ぎ、(結果的に正しかったとはいえ)SNSにアップされた動画ひとつで海中に巨大な生物がいるのだと信じて疑いません。いみじくも赤坂先生が総理に進言するとおり、この場で内閣が注力すべきはそれらの事象の関連性や正体を突き止めることではなく、それによって寸断された交通網の復旧や付近住民の安全確保といった行政上の手続きです。

中盤までのスーツ姿の矢口には越権や思い上がりを感じさせるセリフが多く見られます。
裏設定によると矢口は山口県第3区という宇部興産のお膝元、全国でも指折りの保守王国出身。執務室に飾られた新幹線0系や蒸気機関車(おそらくC571「やまぐち」号)の模型は道路族として絶大な発言力を有していたであろう彼の父親の威光をにおわせています。ひょっとすると田中角栄なみの大物だったかも。
そうした出自が彼をして「この国はまだまだやれる」のように思い上がった、それでいてどこか他人事のような物言いをせしめているのかもしれません。

つまり矢口は総理や大臣たち、そして自身の後ろ盾だった東官房長官を喪って初めてこの災害の「当事者」になったと見ることができると考えます。
大田区の視察に同行した矢口は防災服姿でした。そこで巨大不明生物による被害を目の当たりにし、瓦礫の山に向かって手を合わせ祈りを捧げます。
これは現場で庵野から「好きにやってみて」と言われて自然と出た演技だったらしく、後に庵野から「この映画が矢口の成長物語になった」と言われたとのエピソードが矢口役の長谷川博己のインタビューで語られていました

立川で当事者の矢面に立ったばかりの矢口は自らの負っている重責に焦り、狼狽え、志村の些細な言動に声を荒らげました。泉に窘められ、自分がただの無力でやんちゃな若造だったと痛感します。
「日本がまだまだやれる」のではない、「日本のために自分たちがやるべきことがまだまだある」ことに気づき、日本いや世界の総力戦たるヤシオリ作戦に邁進していくわけです。
後半でも「諦めずに最後までこの国を見捨てずにやろう」「日本の未来を君たちに託します」といった如何にも政治家らしい言葉はさらりと出てくるわけですが、そこには以前ほどの驕りは感じません。政治家としての信念は変わらぬまま、内面の変化を経ての発言なのだとよくわかります。

安田にしてもそうです。霞ヶ関から避難するまでのスーツ姿の安田には矢口とはまた別種の他人事っぽさが漂っていました。しかし防災服姿になってからは明らかに顔つきが変わります。
更に言うなら国外退去の指示に逆らって日本の行く末を見届けると決めたカヨコも最後にはタイベックに身を包み、はっきりと当事者としてのスタンスを取っていましたね。

それはそれとしてこのあと里見総理代行の「あ〜あ、伸びちゃったよぉ」のシーンを受けて「まあ、肚の内の読めんお人だからな」と呟く泉ちゃんが手持ち無沙汰げに結婚指輪をくるくるともてあそんでるのが個人的にかなり萌えポイント高いんですけどどうっすかね。

訊かれてもね。



第3位:里見総理代行からゴジラへの熱核攻撃を容認する特別立法成立を請われた赤坂先生の狼狽ぶり

赤坂先生=竹野内豊と里見総理代行=平泉成の迫真の演技が光る名シーン。シネスコサイズの画角が十二分に活かされています。自分が8回もレーザーIMAXをリピートした最大の理由がここにあります。

均等に情報を並べて画面全体を一つの塊として見せたり、場合によっては第10位で挙げたカットのように大きくシャッターすることで一部分を注視させたり、このシーンのように右端と左端に情報を配置したり、観客の視線を誘導できるのがシネスコサイズの面白いところです。たまに「映画館の大スクリーンは全体が見渡せない」と不満を漏らす人がいますが、一度で全体が見渡せないシーンを用意するのは映画の画面作りの手法の一つなんですよ。

国連決議を赤坂先生に告げるシーンで里見総理に1秒ほどのブレスが入る。
そのタイミングで赤坂先生は何を告げられているのか理解できないかのように2回ぱちくりとまばたきをする。
里見総理が左端で喋っている間の赤坂先生の表情は確かに画面に映ってはいるけれど、そこは想像に任せても構わない。
何故ならブレスの瞬間必ず観客の視線は赤坂先生に行くし、そこでまばたきの演技を入れれば充分なわけです。
レーザーIMAXのエグゼクティブシート付近に座ると誇張抜きで視界の左右いっぱいまでスクリーンが広がり、このシーンなんか初見当時は首を左右に振って見てしまいます。
見たいものを見るために何かが見えなくなるのを覚悟の上で首を振る楽しさ!見る側が情報の取捨選択を行う醍醐味はテレビ画面では絶対に味わえません。その結果取りこぼしてしまった情報が気になるならもう一度見に行けばいいんです。
まさかまだ見てないのにこのエントリ読んでるバカはいないと思いますが万が一にも実在するならこの映画をテレビ放送まで待つのは愚の骨頂だから少しでも大きなスクリーンでかかってるとこ見つけて今すぐ見に行けと言っときます。



第2位:宇宙大戦争マーチ

第11位で閣僚の描写を「作品全体がリアルであるかのように錯覚させる手法」と評しました。
よくこの映画を指して「災害対策のシミュレーション映画」だと言う人がいますがそれはちょっと違うんじゃないかと自分は思ってます。
確かに3.11で福島第一原発を襲った大津波は想定を大きく上回る規模だったかもしれませんが、地震あるいは津波と言った天災は充分に想定内であり、巨大不明生物に向かって言う「想定外」とは全く意味が違いますから。
それでもこの映画を見た人がそこまでのリアルさを感じ取ったのは何故か。メタファーとしての落とし込みが巧みだったのも勿論ですが、序盤でこれでもかというほど「頼りない政府」「機能しない法律」の描写を積み重ね日本人にとってのリアルに寄り添う努力を怠らなかったところに理由があると考えます。

序盤で行われていたのは「嗅いだ覚えのある匂いを漂わせる」リアルな空気の醸成であり、以後は「序盤の残り香が鼻の奥にあることを前提とした」リアリティある情景の演出だったんです。
そうすることで中盤以降の「理想的な閣僚、理想的な行政」にもさほどの違和感を抱かずに見れてしまう。そういう作りなんです。

ゴジラそのものの生物学的な裏付けもそうで、「陸に上がれば自重で潰れる」「巨大すぎる身体を維持できるエネルギー源がない」「神経伝達物質の速度では反射運動も満足に行えない」などの柳田理科雄的ツッコミにも「すでに自重を支えている」「体内に原子炉のような器官を備えている」「背びれ自体が脳の出先機関として自律的にフェイズドアレイレーダーのような役割を担っている」といった事実を突きつけ、周到に「リアリティある」先回りで手を打っています。

何故そんな演出方針を採ったのか。
それは「現実≪ニッポン≫対虚構≪ゴジラ≫。」をキャッチコピーにしつつ、実は中盤以降「現実」と「虚構」の役割が入れ替わっているから
その「入れ替わり」の根拠を以下に2つ述べます。

最初に尻尾が現れるシーンで「あれ…CGけっこうしょっぱいかも…」と感じた人は少なくないでしょう。自分がそうでした。
その後自分は呑川を遡上し蒲田に上陸した第2形態、品川を北上する第3形態で一気にリアリティを覚え、鎌倉に再上陸した第4形態の頃にはCGっぽさというものは全く感じなくなっていました。走る車内から見上げるように撮影されたゴジラのシーンではその迫力に圧倒されっぱなしでした。

CG WORLD2016年9月号掲載の竹谷隆之インタビューによると第2〜第3形態の雛形製作は今年の4月とギリギリまで行われていたそうなので、それによって圧迫されたスケジュールからディテールのツメが甘くなったのでは…とも言われていますが、自分としては「進化するにつれてゴジラがだんだんと現実味を帯びてゆく」という演出なのだと考えます。
たしかにスケジュールがカツカツだったのも事実でしょうが、予算や時間が足りなくてもそれを演出として逆手に取ってしまう庵野のテクニックに関しては今さら例を挙げるまでもないでしょう。
これが第1、「映像」の根拠。

第2の根拠は「伊福部昭の曲の使い方」です。
劇中で初めて伊福部曲が用いられるのが品川での進化のシーン。ここで初代ゴジラの「ゴジラ上陸」がかかります。
次にかかるのが第4形態の鎌倉・稲村ガ崎上陸シーン。ここではキングコング対ゴジラの「ゴジラ復活す」がかかり、鎌倉を歩くゴジラの背後でかかるのがメカゴジラの逆襲より「ゴジラ登場」。
最後に使用される伊福部音楽がヤシオリ作戦開始直後、無人新幹線爆弾がゴジラに向かってゆくシーンで唐突にかかる宇宙大戦争マーチです。
そう、最後だけ伊福部音楽がゴジラではなく人間側につけられているんです

伊福部音楽が常に「虚構」サイドにつけられているのだと仮定すると必然的に宇宙大戦争マーチに乗って登場する新幹線爆弾は「虚構」サイドのキャラクターとなります。
最終局面で完全に「現実対虚構」の意味が逆転してしまった――すなわち「現実≪ゴジラ≫対虚構≪ニッポン≫」に入れ替わったと言えるでしょう。

この仮説の補強材料としてサントラ「シン・ゴジラ音楽集」のライナーノーツに掲載された鷺巣詩郎のコメントを挙げます。

このライナーノーツでは当初、伊福部音楽のステレオ化にあたって鷺巣詩郎は原曲の指揮の揺らぎをぴったり揃えるためわざわざ1拍ごと小数点以下第4位まで合わせたドンカマを用意し、その通りに完コピで演奏させた音を原曲に被せ擬似的に原曲をステレオ化する手法を採ったものの、ダビングの段階で庵野は原曲そのままモノラルで使用することにした…といった主旨のエピソードを読むことができます。
そんな中なぜか「ゴジラ登場」のみ2ループ目にステレオ補強版が収録されているんですが、これはもしかすると「ゴジラが現実に溶け込んだ瞬間」あるいは「現実と虚構が拮抗する瞬間」という意味がこめられているのかも知れません。サントラには総監修として庵野の名前がクレジットされていますからその可能性はゼロではないと考えます。

さて、これらを踏まえるとこの映画では一貫して現実が虚構に負けている構図がとられていることになります。

ヤシオリ作戦の成功で「災害」のメタファーたるゴジラに勝利した日本。
しかしそれは永田町・霞ヶ関を更地にし、
全世界のスパコンを並列につないで極限環境微生物の正体に迫り、
グローバルな協調でもってリソースをかき集め、
陸海空の三自衛隊の統合運用のもと米軍の協力を取り付け、
鉄道と土建の総力をも結集し、
世界政府に頭を下げながら、
ようやくもぎ取った束の間の勝利でした。
良く言えばロマン溢れる、意地悪に言えば到底あり得ない結末です。

虚構だから描ける、あり得ない結末。
作り手が「現実を打ち破るパワーが虚構にはある」と信じている。だからこの映画では虚構が常に現実を打ち負かしているんです。

でも自分のような日本人はそこにこの国の理想像を幻視せずにいられない。
臆面もなくロマンを語る無邪気さが解釈次第でプロパガンダ或いはワーカホリック礼賛と批判されてしまうのかもしれない。

ですが何かを発言すれば必ず右だ左だと囃し立てられる昨今、ここまで無邪気でいられるのはとりもなおさず庵野秀明という人物がシラケ世代・ノンポリ真っ只中の1960年生まれだからこそであるという事実をみんなオミットしてはいないでしょうか。

かつて「王立宇宙軍オネアミスの翼」を見た安彦良和がその「中身のなさ」と「なのに情熱だけはすごい」ところに衝撃を受け、自分たちの時代ではなくなったと感じた、なんてエピソードがありました。
「王立」の脚本・監督は山賀博之だから関係ない?そんなことはないです。前述したような中身のない空虚さこそ同世代である山賀や庵野らGAINAXのメンバーにとっての「リアル」だったんです。

何もかもに飽きて日々無気力に過ごすただ「死んでいない」だけの男達が「飽きるのにも飽きて(たしか氷川竜介の評だったと記憶してるんだけど思い出せない)」大それた事をやらかしてやろう(モテるし)と一念発起するのが「王立」の大まかなストーリーでした。
「王立」にも風刺的な描写は数多くあります。隣国との緊張から軍拡まっしぐらの国政、そのさなかで蔑ろにされる貧しい人々、ロケットで腹は膨れない…。
しかしこの映画にそれらに対する回答めいたものは全く提示されない。
国境の緊張が臨界に達していようが、自分の1日の給料のために瞽女の追いはぎが人を殺そうが関係ない。
俺たちゃ好きなことをやるんだ、他になんの取り柄も持たない連中なんだから。お前らも好きに争え。女を抱け。くだらない人生を謳歌しろ。
そんな映画です。そう、やっぱり30年前から何一つブレてないんです

ちょうどこのエントリを書いてる最中に通販で購入した島本和彦の同人誌「アンノ対ホノオ。」が届きました。
その中で島本はホノオくんの姿を借りて「宇宙大戦争マーチは『じょうぶなタイヤ』への原点回帰である」と看破していました。全くその通りだと思います。こんな文字数を費やしてる自分がまるでバカみたいです。

いつどんな時代でも庵野秀明という男は無邪気でブレない。
その無邪気さブレのなさにホノオくんは嫉妬し、また心酔しているんです。

ここまで筆舌尽くしてまだ右だ左だ喧しい向きには彼らの無邪気の骨頂たる「愛國戦隊大日本」を見てからものを言え、としか言いようがないです。



第1位:ラストシーンで矢口が一瞬だけ見せるカメラ目線

エピローグで1番好きなシーン。
第10位同様わかりやすいようにと描いてみたんですが逆に良さがまるで伝わらないものしか描けなかったからボツにしました。

凍結したゴジラを望む科学技術館屋上の手すりに身体を預け「牧と同じく、好きにすれば」と残し去ってゆくカヨコを目で追い、中空を見つめ、カット尻のわずか2秒足らず矢口の視線はカメラのこちら側にいる観客を見つめてきます。

凍結ゴジラを画面中央に配したレイアウト。地震や原発だけではない、今日も明日も災害とは共存していかざるを得ない、そんな災害大国たる日本の背負う宿命を象徴するかのようなシーン。

「俺も好きにした。さあどうする、スクリーンの向こう側の君らは好きにできるか?」と問いかけられているような気がしてきます。
ですが庵野のことだからきっと信じています。自分と同じように「好きを通した」クリエイターが後に続く日が来ることを。
だってそうでもなければグローリー丸に残された遺品にわざわざ折り鶴なんていう日本人にとっての「祈り」のメタファーの典型を選びはしないでしょ。

前のエントリ『シン・ゴジラという決意表明【ネタバレ多数】』で「この映画は新劇ヱヴァQで3.11という現実のディザスター描写に自分のイマジネーションでは太刀打ちできなかったことへのリベンジであり、同時にイマジネーションだけで『風立ちぬ』の震災描写をやってのけた宮崎駿へのアンサーである」といった主旨の文章を寄せました。
その後「エキレビ」でも多根清史氏が「憑き物落とし」と評していましたが、やはりこのシン・ゴジラというやつはおよそモノ作りに関わる全ての日本人が3.11から5年あまりを経た今だからこそ見るべき映画である、とこのシーンだけを論拠に断言できる気にもさせられる最高のカットだと思います。

ほんとに最高。



最後までおつきあいありがとうございました。
夏コミの拙作シン・ゴジラ本『巨大不明生物災害罹災者鎮魂の碑』あとがきに寄せた文章を再掲して終わってみます。

私は好きにした。君らも好きにしろ。

作中で何度か繰り返されるこの台詞、実はこれによく似た台詞が庵野の過去作にもあります。
それは『トップをねらえ!』第5話でユングが言う「人は自分と同じ人生を歩めない」の一言。
ユングの享楽的とも言える人生観を表したにすぎないと思っていたこの台詞が本当のところは庵野自身の人生観だったと『シン・ゴジラ』を見てようやく気づきました。

矢口やカヨコたちには与り知らぬ何かを「好きにした」牧吾郎元教授。
彼がゴジラを生み出したのか、それとも呼び寄せたのか、あるいは彼自身がゴジラになったのか。
観客である自分たちにもその答えはわかりません。しかしこの言葉が神=監督自身から矢口ら登場人物へのメタ的メッセージであるとすれば、まさにゴジラ最新作の監督役を呼び寄せ、彼の中にある「ゴジラ観」を見つめなおし『シン・ゴジラ』という新たなゴジラを生み出した庵野秀明の生き様そのものを端的に表現しているとも解釈できるように思います。

このメッセージを受けてカヨコは「でもこの国で好きを通すのは難しい」と述懐します。
矢口は答えます。「ああ、僕ひとりじゃな」
野心家だが情には篤く顔が広い、矢口が「好きを通す」うえで外せない盟友・泉修一。
庵野自身にも全く同じ立ち位置のパートナーがいます。
そう、樋口真嗣です。

30年来の盟友である樋口は『ナディア』以後ほとんどの庵野作品で現場を共にしてきました。
この期間中、樋口は樋口で『平成ガメラ』シリーズをはじめとする数多くの映画作品を監督し、すでに日本特撮界の歴史を語る上でのキーパーソン的な地位を確立しています。
同時に樋口もまた近年の製作委員会方式の弊害を実感してもいました。スポンサーや広告代理店、芸能事務所からの横槍、ゴリ押しで現場は混乱。思い通りのモノを作りとおせることのほうが稀でした。
それでも彼は第一線で働き続けました。凡作・駄作の汚名を良しとし、いつの日か必ず「好きを通す」ために顔を売りコネを広げました。そして遂に雌伏の日々は終わりを告げます。
盟友・庵野秀明が持ってきた『シン・ゴジラ』の脚本に心底惚れ込んだ樋口は「ゴジラでなくてもとにかくこのホンが撮りたかった」と語っています(「ゴジラ解体全書」宝島社)。
庵野と樋口、二人の「好き」が詰まったこの脚本を全力で守るべく樋口は東奔西走。さいわい東宝の単独出資であったとはいえ12年ぶりの日本産ゴジラ最新作。やはり恋愛要素の強化など横槍は絶えません。おそらく樋口はこの脚本を守り抜くためにこれまで培ってきた人脈や信用を全て注ぎ込んだに違いありません。むしろこの日のためにそれらはあったと言っても過言ではないかもしれません。
東宝プロデューサー。山内章弘の尽力もあり、庵野の脚本は守り通されました。

この映画を見て簡単に「日本映画の復権だ」「ハリウッドに太刀打ちできる」などと調子づく人もいるようですが、自分には到底そうは思えません。
庵野が、樋口が「好きを通す」ために払ってきた血を吐くような努力と研鑽を思うと、たまさか同じ日本人の功績だからと言って我が事のように浮かれ騒ぐことはできません。
自分にできるのはただ彼らの「好き」の塊に触れ、咀嚼し、blogやtwitterに駄文を書き散らし薄っぺらい同人誌を作って妄想欲を満たす程度がせいぜいです。

「私は好きにした。君らも好きにしろ」

この言葉に、不寛容な社会の中でも好きを貫き通すことは不可能ではない、希望を捨てず努力を怠らないでほしいとの次代への願いとともに

「私ほど好きにできたものはいない。やれるもんならやってみろ」

という勝ち誇りのニュアンスも感じ取ってしまうのは穿ちすぎでしょうか。

カテゴリ:新劇場版

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シン・ゴジラという決意表明【ネタバレ多数】

現時点で国内最高峰の上映環境を誇る109シネマズ大阪エキスポシティのレーザーIMAX。

なにが最高峰なのかご存知ない方にざっくり説明すると、現在日本国内に設置されているIMAXシアターはいずれもスクリーンの縦幅が本来想定されているスペックより狭く、それゆえ「なんちゃってIMAX」などと揶揄されてきたものなんですね。

だから日本で観られたアバターもダークナイトもパシフィック・リムもアヴェンジャーズもインターステラーもなんちゃってアバターやなんちゃってダークナイトやなんちゃってパシフィック・リムやなんちゃってアヴェンジャーズやなんちゃってインターステラーだったわけです。ちぇ。

オープンしたのが昨年11月なのでスターウォーズや火星の人はフルスペックスターウォーズとフルスペック火星の人ってわけ。

そんなフルスペックIMAXでシン・ゴジラ初日を初回と15時50分の2発ほどキメてしまいほっとくといつTwitterに致命的ネタバレおもらししてしまうかわかったもんじゃない精神状態の空条さん、このたび長らく開店休業だったblogをしたためております。
おいてめえ夏コミ原稿大丈夫なのかよと自分でも思いますが今このエモみが揮発しないうちにどこかへ固定しておかないとよけい原稿が手につかなくなるからしょうがないんだよ!!

新劇ヱヴァの時と同様にネタバレ上等で書き殴ってますので未見の方は自己責任でよろしくです
あと敢えて「新劇場版」にカテゴリ分けしてますがまあそういうことです。

と言ってもどこから手をつけていいやら。まずはちょいと昔話から。
本題に入る前に改行いっぱい入れとくんでそこまでは一応大丈夫ですよ。


'14年10月開催の東京国際映画祭で企画された「庵野秀明の世界」。

アマチュア時代からDAICON FILMを経てGAINAX、そして実写映画監督としての庵野カントクくんの歴史を当時のフィルムでふり返ろうって企画でした。

この第1回目「アマチュア・庵野秀明」は事前抽選制のガチ特別上映で、話の種にと応募してみたらこれが当選しちゃいまして。

金欠を推して往路は新幹線、復路は夜行バスの強行軍で行ってきたんですね、東京は日本橋のTOHOシネマズまで。

今でこそ「DAICON III」「IV」は言うに及ばず「じょうぶなタイヤ」すら動画サイトを漁ればすぐに見られるアマチュア時代の庵野の作品ですが、それが最先端である現代のシネコンのスクリーンにかかるというのは控えめに言ってもおっさんオタク総うれション必至のご褒美。しかも今回は表には全く出回っていない高校美術部在籍時代の8ミリ映像「ナカムライダー」なども上映される、まさに世に出る前の庵野を楽しみ尽くせる上映会でした。

その特別上映の最後、「DAICON IV」で空条さんはボロ泣きしました。
いや、youtubeで見ていてもラストの1コマ作画で太陽系らしき構造が引いていってDAICONのエンブレムが現れると涙ぐむっていうかそれを文章に起こしてるだけで軽くウルッとくる程度には涙腺のセーフティぶっ壊れるシークエンスなんでこの日も泣くんだろお前、とハンカチ用意してたんですけどもね。

Twilightの歌い出し"The visions dancin' in my mind"を聞いた瞬間から滂沱の涙は想定外もいいとこでしたね!
前述の「パッパーーーー トワーイラーイ」の頃には嗚咽を抑えるだけで精一杯でしたよね!!

DAICON III・IVを初めて見たのが確か中3だから85〜6年ごろ。当時通い詰めていたナムコ直営ゲーセンのモニターに常連の一人が持ち込んでかかってたVHSでした。
しばらくしてその持ち主にMADビデオなんかと一緒にダビングしてもらって実家のテレビで何度も何度も何度も何度もコマ送りで見たもんです。その刷り込みたるや凄まじく、不惑を過ぎた今でも映像なしのTwilightを聞くだけで心はあの頃に飛んでいっちゃう。それほどに特別な映像なのですよ!
つい最近Twitterで「アニメ好きなら押さえておきたいアニメ」的ハッシュタグつきでDAICON IVの名が流れてるのを見かけたけど個人的には「アニメ好きなら押さえておきたいけど軽い気持ちで観てほしくはないアニメ」なのですよ!!

まあ何が言いたいかと言うとことほど左様に空条さんに備わっているん゛ぎも゛ぢい゛い゛い゛〜〜〜スイッチは庵野カントクくんに大体おさえられてるってことなんです。
それっくらいの信者がこのblogを書き散らかしているんだって前提でお読みいただきたいと。





さて本題です。いっぱい改行入れとくからマジ自己責任でお願いします



































































































































…と改行してみたもののいざとなるとホントにどうまとめればいいのか難しい。これはなにも自分が劇場で観たことのあるゴジラ作品が'84ゴジラと「のび太の恐竜」の同時上映だったモスゴジだけだからとかいう理由じゃないとは思う。
そんな宙ぶらりんな気持ちのまま書いていきたい。



長谷川博己以下錚々たるキャストが名を連ねるトレイラー発表後に風発したおおかたの予想通り、全体の流れや画面作りは「日本沈没」や「日本の一番長い日」、「激動の昭和史 沖縄決戦」を彷彿とさせる群像劇がメインで、ゴジラは災害の記号として扱われている。
冒頭の釣り船や自動車を押し流しながら自身が津波となって押しよせるゴジラ第2形態ほどの直接的な比喩を見れば誰だって気づくことだろう。

なんの予告もなく現れて、日常を破壊し、蹂躙し、日本全土に恐怖と無力感を刻み込む存在。
しかもそれは人間がわけもわからずに振るった「核」というプロメテウスの火が生み出した存在。
あとに残されるのは累々たる死体の山と放射能の爪痕。

なにをどう言い繕おうともゴジラを描く権利と、同時にそれを描き続けていく義務を持つのは2度の原爆投下を体験した日本だけなのだ。

制作発表時の庵野のコメントにこうある。

ゴジラが存在する空想科学の世界は、夢や願望だけでなく現実のカリカチュア、風刺や鏡像でもあります。
現在の日本でそれを描くという無謀な試みでもあります。

新劇ヱヴァの所信表明が先例であるように、こうした文章を庵野が寄せる時は決まって極限まで単語の無駄を削ぎ落とし、作品を見た後いかなる曲解も誤解も生まれる余地のない言葉を選ぶ。

夢、願望、現実のカリカチュア、風刺、鏡像、無謀な試み。
鑑賞後の向きにはこれらのワードがどの描写を指しているかすぐにわかるはずだ。

自身の想像力の欠如を「想定外」の言葉で誤魔化すしか能のない防災担当大臣や、発言の責任を負いたくないが故に何一つ具体的なコメントができない御用学者の連中は風刺以外の何物でもない。

不眠不休で雑務をこなす対策本部のほんのささやかな睡眠時間を奪うかのような集団ヒステリーじみた「ゴジラを倒せ」と「ゴジラを守れ」の入り交じるシュプレヒコールはまさに現実のカリカチュアであり、また鏡像でもある。

牧が遺したデータとゴジラ凍結に追いやった血液凝固剤、そしてゴジラ自身の発していた新たな放射性物質の並外れた半減期の短さはいずれも今の日本が抱える残留放射能問題への「こんなこといいな できたらいいな」という夢、願望である。
なにより庵野自身、原子力を「夢の未来のエネルギー」と信じ込まされ育った世代だ。劇中でもゴジラがもたらした物質を「福音」と呼ぶくだりがあるところに原子力そのものへの捨てきれぬ憧憬がうかがえる。

フィクションだからこそ臆面もなくそうした夢や願望、そこへ至るまでの無慈悲な苦難を語れるはずなのに、それすらも許さず「配慮」の名の下に封殺してくる不寛容な社会にあって、それでも夢と願いを謳わんとする気高くも無謀な試み。

シン・ゴジラという作品を俯瞰した時、全てがこの語群に集約されているのがわかる。



さて。

新劇ヱヴァQが「脚本の大幅な修正を強いられた」というスタッフ発ながら具体性に欠ける情報が飛び交っているのはこんなエントリをわざわざ読みに来た人なら大体が知っていると思う。
その原因は全て3.11東日本大震災だ、と断定する意見が大勢を占めている。

曰く、3.11なんかが起こったせいでニアサードインパクトの災害描写がまるごと封じられてしまい、あのようなウソ予告の本編に仕上がったんだ、と。
現に「破」の血の津波シーンまでもが地上波では放送できなくなってるじゃないか、と。

自分は今日まで、というかこのエントリを書きはじめるまでこの考えには与してこなかった。
庵野秀明ほどの表現者がそれっぽっちの理由で自分の表現したいモノを曲げるものか、と。
影響を受けたとしてもそれは軽微な軌道修正ほどの要因にしかなりえないだろう、と。

だが今日この映画を見て、改めて制作発表のコメントに目を通してみてその認識はある意味で正しく、またある意味で甘いと気づかされた。

過去の継続等だけでなく空想科学映像再生の祈り、特撮博物館に込めた願い、思想を具現化してこそ先達の制作者や過去作品への恩返しであり、その意思と責任の完結である、という想いに至り、引き受ける事にしました。
今しか出来ない、今だから出来る、新たな、一度きりの挑戦と思い、引き受ける事にしました。
エヴァではない、新たな作品を自分に取り入れないと先に続かない状態を実感し、引き受ける事にしました。

「今しか出来ない、今だから出来る、新たな、一度きりの挑戦」
最初に読んだ時は単なる「ゴジラなんてビッグタイトルを任せてもらえるのは後にも先にも今しかない!やっぱり特撮オタクの血が騒ぐ!」程度の意味にしか読めなかったこの一文。
これこそ「Q」で成し得なかったディザスター描写へのリベンジ表明だったのではなかろうか

そして――以下は完全に庵野信者の妄言(さっき「作品を見た後いかなる曲解も誤解も生まれる余地のない言葉」とか言ってたくせに)だが――

「Q」で庵野が災厄の描写を封じたのは「被災者に配慮したから」でもなければ「現実に起こってしまった大災害を目の当たりにして価値観が揺るがされたから」でもない。

「当時の庵野のイマジネーションでは現実に到底太刀打ちできないから」だったのではないだろうか。

庵野の師匠にあたる宮崎駿は「風立ちぬ」で関東大震災の描写に真っ向から立ち向かった。
その「風立ちぬ」の描写は徹底して主人公・二郎が持つ美意識をその重心と設定している。二郎が「美しい」と感じたものしか画面に出てこないと言い換えてもいい。
轟々とわき上がる大火災の真っ黒い煙が意思を持つかのように空を覆い尽くす様に、少なくとも自分は恐怖と同時に「美しさ」を覚えた。

つまりこの辺は庵野信者プラス自分の感覚を信じたいが為の、いわば牽強付会、我田引水である点お断りしておく。

それでも。

庵野は宮崎の「美しさ」の描写と、自分の感覚を信じて勝負できる強さに敗北感にも似た感情を覚えたのではないかと考える。

確かに公開年の順序的には「Q」が2012年11月、「風立ちぬ」は2013年7月だ。だが「風立ちぬ」パンフレット掲載の完成報告会見で宮崎は

ちょうど関東大震災の絵コンテができた翌日に3.11が来まして、そのシーンを描くのかどうか、本当に深刻に考えなければならなかったんですけど、1カットも直さずに作ることができました。

と語っている。そう、震災前日には「風立ちぬ」の当該シーンのコンテは完成していたのだ。
良くも悪くも自分が見たもののコラージュで作品を織り上げてゆく庵野には到底至れない境地だ。
庵野自身も同じ会見の席で「72歳を過ぎてよくこれが作れるなあと感動しました」と率直な賛辞を贈っている。

そろそろ何が言いたいかわかってもらえただろうか。

ゴジラの放射能火炎に焼き尽くされる都心の畏怖と美が綯い交ぜになったロングショットは、3.11の光景を見た庵野から「風立ちぬ」で見たことのない震災シーンを描いてみせた師匠・宮崎への「今だから出来る」アンサーでもあったのではないかと思うのだ。
特撮博物館で巨神兵の実写化を快諾してくれた宮崎への返礼とともに。

タイトルが発表されるや「新と真のダブルミーニングか」「樋口真嗣の真も入ってるんじゃね?」と話題になった「シン」には、だからゴジラとともに庵野秀明自身も次のステップに「進」む第一歩という決意表明も込められているように感じる。

さあ、そんな個人的なメッセージだけで終わらせないのが庵野一流のサービス精神だ。

庵野が作るんだから当然エヴァ好きも劇場にやってくる。
だから鷺巣詩郎を起用するし、「例の曲」を臆面もなく使うし、エヴァで見たようなレイアウトを随所に挟んでくる。
踏切の警報器をナメて電車がすっ飛んでいくカットなどレイアウトから尺の長さまで完全にダミープラグ稼働状態のエヴァ初号機がバルディエルを陵辱するあのシーンの「あのカット」そのままだ。

過剰なテロップ、病的なまでの望遠へのこだわり、わざわざ昭和特撮の音源から引っぱってこられた爆発音…全カットが庵野の好きなもので埋め尽くされている。
在来線爆弾の発想は怪獣のソフビに鉄道模型やプラレールを襲わせて遊んでいたあの日の子供たちの脳内を忠実に再現した結果と言えよう。
間准教授の口から仄めかされる「群体化・有翼化への進化の可能性」とラストシーンで意味ありげに映る「尻尾から分化しようとしているヒトの姿をした何か」はまさしく「巨神兵東京に現わる」への伏線を匂わせる。

そのサービス精神が鼻につく人にはきっと「こんなものゴジラじゃない」と拒否反応を生み出す原因になってしまうだろう。ここばかりは好き嫌いの問題だし「嫌いじゃないがゴジラでやってほしくない」と言われればそれもご尤もではある。
だがしかし前述したようにこの映画には「ゴジラとは何か」という当たり前の問いかけに真正面から向き合い回答を下す強い気持ちも込められていることを忘れないでほしい。
ただの「ゴジラごっこ」などでは決してないことを忘れないでほしい。

「ゴジラとは何か」。
本来ならこんなことは84ゴジラとモスゴジしかスクリーンで鑑賞してない程度の人間に語る資格がないのは重々承知だ。

末筆にわざわざ説得力をなくすような言動しなくてもいいんだが、どうしてもこれだけは言っておきたい。



「庵野はシンゴジラが大コケして鬱こじらせればいい」とか言ってた奴、息してる?

※7/31追記:最後の方に余計な一文があったんですが勢いに任せすぎて本当に余計だったことに気づいたのでコメントアウトしました。気分を害された方がいたら申し訳ない。
それでも読みたい方はソースを開いてください。

カテゴリ:新劇場版

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Q【バレ放題】

Qを3回見てやっと感想がまとまったので公開します。
ただしうっかりネタバレを見てしまいたくない人のため11月いっぱいまでこのエントリには書き込まず、テキストへのリンクのみ掲載とします。

12月に入ったら注意書きを添え全文を掲載します。

というわけで、下記はオールネタバレ記事テキストへのリンクです。
htmlではなくtxtで設置しディレクトリにはいちおう検索避けの対策を施してありますが、行儀の悪い検索ロボットだと拾っていってしまうかも知れません。

閲覧は自己責任でお願いします。

新劇場版Q感想テキストリンク

2/19
BD・DVDの発売日が決定したそうなのでそろそろこっちへ全文を掲載します。

【新劇場版ではこんなシンジ達の目指すゴールが(とりあえずは)夢想できる。それはひょっとするととても自分勝手な理想の押しつけなのかも知れないが、それでもなんとなく以前のようなそれこそ「気持ち悪い」場所には着地しないで済みそうという期待が持てる。同時にそんな楽観的な期待など完膚無きまでに叩き潰して欲しいというマゾな願望もあるんだが。】

3年半前、破の感想でこんなことを述べた。そして遂に公開されたQ。それはそれは見事にこのマゾな願望を充足させてあまりある内容だった。

自分を「要らない子」と思いこみ他者との関わり合いを恐れていたシンジが日本中の「頑張って!」を背負って使命感に目覚める序、父親への承認欲求から始まった「エヴァに乗ること」がいつしかシンジ自身の望み、願いとなった破。そのいずれもジュヴナイルを主人公に据えたSFストーリーとしては誰もが認める傑作となったのは言うまでもない。

エヴァはいわゆる「セカイ系」のはしりとされている。セカイ系とは簡単に言えば「主人公を取り巻くきわめて小さなコミュニティ、多くは主人公とヒロインの関係性だけで世界・宇宙規模の問題を描いている作品」のことだ。
しかし序・破ではセカイ系独特の「主人公のミニマムな行動原理」も「カキワリのように希薄な舞台装置」も感じ取ることは難しく、むしろ主人公もそれを取り巻く世界も積極的に外へ外へと描写を積み重ねられていたように思う。

しかし再び振り返ってみるに、それは果たして社会現象とまで呼ばれた「エヴァ」というタイトルがわざわざやるべきことだったのかという疑問が湧いてくる。

一貫性を持つコンテクストと主人公の心理が生み出すクライマックスでのカタルシス。序・破の脚本は作劇術のお手本と呼ぶに相応しい非の打ち所のないものだった。実際それらは喝采でもって観客に受け入れられ、空前の大ヒット作となった。
それは確かにそうなのだが、同時になにか寂寥感のようなものを覚えたのも確かだ。寂寥感の正体とはつまり序の感想で述べた

【ただ同時に独身時代のような「歪で気持ち悪いけど人の心を惹きつけるもの」はきっともう作れないんだろうなあとも改めて思いました。】

というものだ。
そして序の感想ではこう続けた。

【新劇場版とは
オリジナル以後ずっと公式/非公式両面から『補完』され続けてきた
「歪な、でも目を背けきれないエヴァンゲリオンというターム」

「きれいなエンタテイメントとして消費され終わりを迎えるヱヴァンゲリヲンという商品」
に再構築する作業なのだろうと。そういう意味でこの3+1部作は「最後にして最高のキャラクターグッズ」となるであろうと思うし、そうなって欲しい。】

この思い自体は今も全く変わっていない。庵野自身もつい最近になってこんなことを語っているようだし、これについては的外れとも思っていない。

こうしたかつての感想を踏まえ、結論から言おう。
今とてつもなく嬉しいのだ。「きれいなエンタテイメント」と「歪で目を背けきれない得体の知れないもの」は二律背反の関係にあるという思い込みをこうも簡単にぶち壊してくれたことが。
そして更なる目的実現のため、これは「エヴァだからこそわざわざやるべきこと」だったのだ。

冒頭の初号機強奪作戦からして観客の置いてけぼり感は凄まじい。
もう戦線復帰は絶望的とさえ思われたアスカがどういうわけか改2号機とともに最前線に立ち、独断専行の塊のようだったマリがその援護についている。
彼女たちが何と戦っているのかは全く明示されない。
初号機をおおう棺のような物体にはNERVの文字が見え、その中から初号機を護衛するかのように現れた敵と思しき物体(パターン青、しかし使徒とは呼称されない)には初号機の意匠が見て取れる。
やがて窮地に追い込まれたアスカが思わずシンジの名を叫ぶと、それに呼応するかの如く初号機らしき何かが棺を突き破り、敵をビーム一閃なぎ払う。

一体何が…再起不能レベルのダメージを負ったはずのアスカと2号機に、Mark.06の槍に貫かれ擬似シン化形態を解いた初号機に、そしてそれを操っていたはずのカヲルに、一体何が起こったのか。
破で見せられた予告をすべて「空白の14年間」に封じ込められ、のっけから観客それぞれが持ち込んだであろう「Qの予想」は無碍に取り上げられた。
唯一最大の防具を入り口で奪われ、否応なくまっさらの状態でスクリーンに相対することを余儀なくされた恰好だ。

目覚めたシンジが見たのはいつもの天井ではない。
傍らにいるのは極めて事務的にことを進める担当医官・鈴原サクラ。
ミサトらしき人物もリツコらしき人物もその風貌に面影はなく、しかもミサトは「艦長」だという。

まるでマトリックスから現実世界へ二度目の出産を経験したネオのような当惑さえ覚えさせるこの一連のシーン、結局のところは破から14年後の世界であると判明するわけだが、序・破とおしてさんざん言われ続けてきた「ループ説・パラレルワールド説」を匂わせ(ほんとにパラレルに迷い込んだのか…?それともこっちが現実で今までのが…?)と思考の目眩に陥らせる実に巧妙なミスリードだった。

ところでこのヴンダーの描写はΝ-ノーチラスに合流した直後のナディアとジャンの目線にダブる。大小の丸窓で構成されたブリッジはまさしくΝ-ノーチラスのデザインを受け継いでいるし、長髪を束ねたミサトの姿はネモ、金髪をばっさりとカットしたリツコはエレクトラだ。なによりヴンダーの浮上からネーメジスシリーズを振り切って飛び行くシーンに流れる勇壮な曲は紛う方なきΝ-ノーチラスのテーマだ。このセルフパロディができるタイミングはNHKでHD版ナディアが放送されている今をおいて他にない。Qで唯一と言っていい「ニヤリとさせるサービス」である。
ただひとつ明確に違うのはそこでの主人公の扱いだ。

「エヴァンゲリオン初号機パイロット」としてのアイデンティティを確立したシンジにミサトは「あなたはもう何もしないで」と冷たく言い放つ。
ネルフの誰よりもシンジがエヴァに乗ることを望んでいたはずのミサト。綾波を救うことしか頭になかったシンジに「誰かの為じゃない、あなた自身の願いのために」と背中を押してくれたはずのミサト。
やはりシンジの戦う動機のどこかには「ミサトの願いを叶えたい」という思いがあったのだろう。
納得いく説明のあるなしを超越して、だからその一言はシンジを絶望させるに充分すぎた。「誰か僕に優しくしてよ」どころの話ではない。見知った顔も見知らぬ顔も、ヴンダーのブリッジクルーはみなシンジに微笑みかけるどころか背中を向けて目を合わせようともしない。オペレーター北上ミドリに至っては何やらシンジを憎んでさえいるふしがあるのだ。
命をかけて世界を守ったはずなのに、誰も、アスカも、ミサトすらもシンジを肯定しようとしない。彼のアイデンティティであったエヴァ初号機、ヒトの造りしモノでありながらヒトの手には負えない存在であったはずのエヴァ初号機は今やヴンダーのメインエンジンとなり果て、その手から取り上げられた。もはやシンジの存在意義は彼が救い出した綾波以外にない。

アヤナミの乗るMark.09に連れられヴンダーを出奔するシンジの感情はまさに観客とシンクロしていた。ガキだと言われてもしょうがない。実際シンジと観客の時間は14年前のニアサードインパクトで止まっていたのだ。14年の空白を埋める満足な説明もなく皆勝手なことを言う。説明することすらおぞましい何かが起きたのかも知れないが、これでは納得できようはずもない。
「早く日常へ戻りたい。ネルフの日常に戻りたい」…しかし人類最後の希望だったはずのネルフ本部は見るも無惨な廃墟と化していた。

そう、Qではこのようにシンジが求めているもの=観客が求めているものをことごとく、それも念入りに取り上げられるのである。

数多くの職員が働いていた本部施設は荒れ果てて人っ子ひとり見あたらない。カラカラに乾いたケージには雑草が顔を見せ、エヴァの拘束具やアンビリカルブリッジには赤錆が浮いている。縦坑も搬送用エレベータも硬化ベークライトで埋められ、父との再会を果たしたあの窓は既に朽ち果てている。
観客にとってネルフの象徴だったあのロゴは砲弾でボロボロにされ、代わって現れた新たなロゴはまるでモザイクがかかったようで、それがそのままネルフという組織自体の変容を物語っている。

主人公周辺のミニマムな登場人物と乱立するカキワリ状態の拘束具や壁材。序・破で綿密に構築してきた世界観が御破算となったその光景はまさしく「セカイ系」の舞台装置だ。
ここに至って「ヱヴァ」は原点たるセカイ系に立ち戻ったのである(別に今ごろになってセカイ系を議論したいのではないです。舞台装置の区分として便宜的にそう読んでいるだけなので悪しからず)。
そしてその事実が何よりも観客を絶望させる。寄る辺をなくした観客は必然的にカヲルに最後の希望を託す。「これだけ勿体つけたんだ、お前が何とかしてくれるんだろう」と。
シンジはシンジで自分自身の「綾波を救いたい」という願いがニアサードインパクトを引き起こしてしまったこと、エヴァに母ユイの魂が宿っていること、ユイを雛形に綾波シリーズが作られたこと、それがすべて父ゲンドウの計画であることを立て続けに告げられ、アヤナミがあの時に救った綾波ではないことに気づく。
「私たちの街、そしてあなたが守った街」も、シンジにとって最後の存在意義だった綾波をも取り上げられたシンジもまた必然的にカヲルに最後の希望を託す。

シンジの罪と罰、DSSチョーカーをカヲルが引き継ぐシーンは実に象徴的であり、なおかつTVシリーズ・旧劇場版でカヲルの最期を知る者にとっては来るべき悲劇を予感させるものだった。
この感想を書いている時点でQは3回鑑賞済みだが、このシーンに限らずカヲルとシンジのやりとりは緒方恵美・石田彰両キャストの演技が素晴らしく、3回が3回ともこの場面の
「でも僕は信じて欲しい」
「…できないよ…!!」
「………みさとさんがこれをつけたんだ………」
の迫真の演技には胸が詰まる思いがした。

Qで特筆すべきひとつにアスペクト比の変更がある。テレビ放映も視野に入れてか序・破は16:9に近いアメリカンビスタサイズで制作されたが、Qではスーパースコープサイズを採用し、ロングのレイアウトが多用されている。この横長のアスペクト比はアクションには些か不向きだが、Qはストーリー的にも静の場面が多く、また庵野が得意とする左右方向へ極端に偏ったレイアウトでより効果的な画面が作れることが主な理由だろう。
実際このシンジとカヲルのシーンでも両者の精神的距離感の演出に大きく貢献しているし、ほかに冒頭の改2号機を乗せたブースターユニットが回頭するシーンや飛行するヴンダーのシーンを見てもこれらのメカニックがスーパースコープサイズを念頭に入れてのデザインであると確信できる。BD発売までに我が家のテレビをあと10インチぐらい上のサイズに買い換えたくなるほどだ。

かくしてシンジとカヲルの二人は最後のエヴァ第13号機に乗り込み、セントラルドグマを目指す。残された最後の希望、世界の「REDO」を行なうため。
だがその最後の希望も実にあっけなくゲンドウによって取り上げられ、自律改造されたMark.06=第12使徒が行なおうとしていた真のサードインパクトの続きが始まる。まんまとゲンドウ=庵野の思惑どおりに観客もまた最後の希望を取り上げられた。

ロンギヌスの槍が2本だと何がどう違うのか。
辛うじて読みとれるのは、14年前にシンジが起こしたニアサードインパクトと、リリスが結界を張った原因=13年前にMark.06がリリスと接触したことで起こったと思われるサードインパクトは完全に別の現象であることぐらいである。

・8号機の発射したアンチATフィールド弾がATフィールドと干渉することなく13号機に吸い込まれていった描写とその後のアスカのセリフから、13号機はATフィールドを持たないことがわかる(改2号機の攻撃はファンネル状のネーメジスシリーズに似た物体が発するATフィールドで防御していた)。
・破でゲンドウが月面タブハベースを視察した際にMark.06の建造方式が5号機までのエヴァとは異なると言及しており、そのMark.06がリリスと接触したことでサードインパクトは発生したようである。またMark.06はロンギヌスの槍を抜かれリリスから解放された後に第12使徒に変化した。
・アンチATフィールドはEoEではS2機関を開放した量産型エヴァとリリスがそれぞれ発生させていた。
・渚カヲルは第1使徒(=ADAM?)である。

これらを根拠に13号機はMark.06とも異なる全く新しい建造方式、つまりセカンドインパクト時に現れた光の巨人――リリスと由来を同じくするもの――をベースとして造られたもので、これと使徒・カヲル、シン化のトリガー・シンジをロンギヌスの槍2本を媒介として接触させ、「サード」を上回る「フォース」インパクト=ゲンドウやミサトの言う「神殺し」を行なおうとしたのだろうか…と。

ではその一方の槍がカシウスの槍ならどうなったのか、なぜカヲルともあろう者がゲンドウの欺瞞を見抜けなかったのか、また太古からの思念体であったかのようなゼーレは一体何者だったのか、そもそもリリスの躯とMark.06が残っている状態で13年前のサードインパクトは完遂されたのか…いずれも現時点で観客に与えられた情報では正確には知る由もない。
なぜなら今は七並べで言う8と6をすべてゲンドウに握り潰されている状態だからだ。

その握り潰された状態、それが紛れもなく「エヴァ」なのである。
庵野以外の全員がパスを使い切り、嬉々として残りの手札を「ずっと俺のターン」状態で並べてゆくさまを為す術なく見守るのが「エヴァの楽しみ方」なのである。
少なくともTV版〜EoEはそうだった。

時代が移り変わり、EoEもTV版も知らない観客相手に同じことを仕掛けるのは難しい。
そこで庵野は一計を案じたのだろう。

まずは器だけはよく知られている「ヱヴァンゲリヲン」という鍋の中身に誰にでも一目でわかる明快な「エンタテイメント」を満たす。
序・破を通じてその「エンタテイメント」に観客全員が浸かったところで鍋を火にかける。
実はこの「エンタテイメント」は火にかけられると「エヴァンゲリオン」に変質する迷惑な性質を持っている。
鍋の中はあっという間に「エヴァンゲリオン」に置き換わり、観客は阿鼻叫喚のまま為す術もなく煮上がってゆく。

それが序破Qの正体だったのだろう。

直撃世代相手に同じことを仕掛けるのはもっと難しい。
彼らには呪いがかかりっぱなしなのだ。お灸が効きすぎているのだ。
そこで庵野は一計を案じたのだろう。

それは「憑き物落とし」。エヴァによってかけられた呪いはやはりエヴァでしか解けない。
だから敢えて「ヱヴァンゲリヲン」の器に彼らを呼び寄せた。
序で「エヴァを好きだった、今も好きでいたい自分」を肯定させ、破で「綾波やアスカを好きだったあの頃の自分」を肯定させた。
彼らの憑き物が綺麗さっぱり落ち、心が希望に満ち溢れたところで一気呵成に新たな呪いをかける。

それが序破Qの正体だったのだろう。

まさに"YOU ARE (NOT) ALONE."今までどおり独り心の中にEVAを好きだった自分を封印していてもいいし、公言してもいい。
まさに"YOU CAN (NOT) ADVANCE."エンタメとなったEVAを捨てて先に進んでもいいし、残って見届けてもいい。
まさに"YOU CAN (NOT) REDO."EVAファンをイチからやり直してもいいし、そうしなくてもいい。

「確かに結婚はしたが、それは俺が過去を捨て去ったからできたのではない。たまたま安野モヨコが庵野秀明という人間を愛したが故の結果だと言うだけだ。その程度のことで俺の本質が変わると思ってもらっちゃ困る」
そんな高笑いが聞こえるようだ。まんまとしてやられた。

繰り返す。それがとてつもなく嬉しいのだ。
あの頃のめんどくさい庵野が帰ってきた?そうじゃない。
庵野はずっと庵野のままだった。丸くなったどころかジ・Oもビックリの隠し腕を装備するに至ったのだ。なんてこった。

そしてまたとてつもなく嬉しいのだ。
公開直後から直撃世代も新劇場版世代も足下を掬われて戸惑い、ある者は手を取り合って祈り、ある者は罵り合っているこの惨状が。

なぜって、これで世代など関係なくみんな横一線で完結編を待てるのだ。「お前にはわかんねえよ」「年寄りうぜえ」と不毛な言い合いをする必要がなくなったのだ。
序破の2作あってこそのQ。わざわざここまでお膳立てしてくれた。だからこう言いたい。

「我の願いは叶った。よい。すべてこれでよい。EVAファンの補完。安らかな魂の浄化を願う」

…それにしても「あなたが守った街のどこかで今日も響く 健やかな産声を聞けたなら きっと喜ぶでしょう」って歌詞がこんなに切なくなるとは当の宇多田ヒカルも想像してなかったんじゃないかな…。

カテゴリ:新劇場版

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破BDでゲンドウを再考察する

待ちに待った破BD・DVDがついに発売されたわけですがなんだかんだと忙しくてまだ1回しか観れてません。これで劇場で観たのと合わせてつごう5回目なんだけど、なんかやっとこさほんとのほんとに冷静に観られるようになってきた気がするよ。

劇場公開版(以下2.00)からいろいろと細かなシーンの描写変更・追加が行われているBD・DVD版(以下2.22)ですが、個人的に最も注目すべきと思っている変更点はホントのところ相田くんなのかアイハラくんなのか...ではなく、第9使徒に侵蝕された3号機をダミーシステム起動状態の初号機が陵辱するシーンの途中、ゲンドウがモニタでその様子を見守るカット。

2.22ではサングラスも光を反射し口元も両手で隠されているため表情が読みとれなくなってますが、ここ2.00では口元が笑ってたんです。

『破』劇場での鑑賞時、空条さんが唯一違和感を覚えたのが他ならぬこの「笑み」でした。

このシーンに相当するテレビ版第拾八話『命の選択を』でのゲンドウは順調に使徒バルディエルとの闘いを遂行するダミー初号機の働きに満足するかのような笑みを浮かべており、これに倣って2.00でも笑みを浮かべる演技が施されたのでしょうが、拾八話のゲンドウと『破』のゲンドウの心境は明らかに違うわけで、ならばここで同様に笑顔でもって使徒撃退の様子を見届けるはずがない。

なぜってこの後『破』ゲンドウは、自らの手を汚すことを拒み使徒殲滅の任務を放棄、のみならずゲンドウをはじめとするネルフ本部の全員を恫喝したシンジに「望むものがあるなら万難を排して全力で掴み取れ」という意味の叱咤の言葉を浴びせるのです。
そこには明確な「ネルフ司令ではない、碇シンジの父・碇ゲンドウとして子に望む姿の提示」の意思が見て取れます。

対して拾九話『男の戰い』のゲンドウがここでシンジに放ったのは「お前には失望した」という三行半。失望とは概して部下や従業員など利害で構築された関係にある相手が自分の目論見通りの成果を上げなかった時に抱く感情であり、親が子に対して抱く感情とは考えにくい。

ではこれによって何が変わるのか。それは使徒への抵抗をせず、みすみす自身を危険にさらすシンジへ向けたゲンドウのセリフ「お前も死ぬぞ」が含む意味合いです。

拾八話のゲンドウはただ目の前の使徒を倒すことができればそれ以外はどうでもよく、仮にシンジが再起不能となったとしても「バックアップ」がある=シンジを唯一無二の存在と見ていないと言っていいでしょう。だからさっさと使えないシンジを切り捨て、自分に従順なダミーを起動させたのです。

『破』ゲンドウは―もちろん来るべき人類補完に必要不可欠な存在だからというのもあるだろうけれど―息子シンジをゲンドウなりに大切に思い、不器用ながら父子の和合を目指して接しようとしています。それは『序』ヤシマ作戦中にミサトが彼へ向けた「自分の子供を信じてください」という諫めの言葉に耳を傾け、綾波に誘われた食事会への参加を承諾したところからも明らか。
ならば「全力を尽くせばアスカの救出も不可能ではないはず、しかし息子はその前段階でつまずいている。息子を死なせるわけにはいかない。だがこのままでは息子は確実に使徒の手にかかってしまう」という「命の選択」の末にダミーを起動させたゲンドウがここで不敵な笑顔を作るはずがないんです。

それぐらいこのカットの持つ意味は大きい。だから2.22であの笑顔が修正されたことは非常に納得がいくものであり、これで自分としては『破』が完成されたと感じるのであります。

テレビ版で繰り返し描かれた「人と人との断絶=ヤマアラシ痛いから近寄らない!」に対し、やはり新劇場版では「人と人とのふれあい、和合=痛いけど面白いからいい!」がテーマなのだなと改めて確認するのでした。

それと以前のエントリで言及してた『翼をください』=『甘き死よ来たれ』の仮説についても2.22の特典映像で確証を得ました。その確証材料とはRebuild of Evangelion 2.02内で使われている本編未使用バージョンの『翼をください』ラスト近くに入ってくるハンドクラップ。
本編で使われていたバージョンでは全体のバンド構成とイントロのコード進行が構築する世界観の類似、あとラストのヒステリックなストリングスぐらいの状況証拠しかなかったんですが、このクラップはもはや物証を得たと言って差し支えないレベルでは。

セリフ回しや演出という左脳的な面だけでなく音楽を用いた右脳的な面からもこうした「テレビ版〜EoEを経た世代にだけ冷や汗をかかせる」仕掛けを組み込んでくるのはなんとも上手いなあ。

カテゴリ:新劇場版

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3回目を観て式波さんを考える

金曜日に通算3回目の『破』鑑賞。
以後はまたしてもネタバレ満載なので未見の人は読み飛ばし推奨。

…と言っても今回は巷間で取り沙汰されている「あの描写どうだったっけ?」的な箇所のおさらい&答え合わせのつもりで観に行った部分が大きかったんだけど。

まず『謎の円盤UFO』へのオマージュ描写はタブハベース上空をゲンドウ達の乗る月往還機が漂うそのさらに上、ロンギヌスの槍と思われる大きくて長い物体を牽引していたのがおそらくS.I.D.。
月往還機がイーグルトランスポーター、もしくはカラーリングからレスキューイーグルだと言ってる人もいるみたいですが、あの月往還機はイーグルにしてはフォルムが細いです。またそれがコンテナを積んでいない状態だとしてもイーグルならば船体の全体にトラス構造が認められるはず。そしてそれ以前にイーグルは『UFO』ではなく『スペース:1999』に登場するメカなのでクレジットとの矛盾が出ちゃう。

「今回はリッちゃんがやけに大人しい&ゲンドウもそれほど外道じゃなさげなので、ひょっとするとリッちゃんママに絡んだ愛憎劇がないかも」という予測から綾波はもしかしてまだ1人目なんじゃないか?と予想を発展させているのを見ましたが、調整槽に浸かっている綾波にゲンドウが「食事にしよう」と呼びかけるシーンで彼女が着けている首輪には『REI-02』の刻印があったので経緯は不明ながら綾波はやはり2人目の可能性が濃厚。

某所で「バルディエル戦後アスカの荷物がまとめられたコンテナに貼られたネームプレートに記された苗字が『惣流』だった」という目撃証言がありましたがこれは間違い。ちゃんと『式波』でした。空条さん映画鑑賞の際は度がピッタリのメガネかけるんで自信あります。

シンジがミサトの家を出るシーン、ミサトが留守電のたまった携帯を手渡そうとするところでケンスケの苗字を「あいはらくん」と言っている。これは2度目に観た時から気になっていて聞き違いかと思ってたけどやっぱりそう呼んでました。でもその前、トウジの妹が退院したとシンジに告げる登校シーンでは委員長から「おはよう、相田くん」と呼ばれていたし、『序』のシャムシエル戦で発令所のモニタに表示されたIDでも「相田ケンスケ」となっていたのでこれはミサトの覚え違いか、あるいは台本での誤記・読み間違いのどれか。そもそも今回は「第壱中学校に通う生徒全員がマルドゥック機関によって選出されたエヴァパイロット候補」という設定すらない雰囲気だったことからケンスケはおろかトウジも参号機パイロット候補に含まれていないようだし、むしろ苗字を覚えられていただけありがたいと考えるべきなのか(;´Д`)

クライマックスの『翼をください』のイントロ、最初にピアノで入ってくるコードがやっぱり『甘き死よ、来たれ』に酷似している気がして、でも考えすぎかなあとか思ってたけど『音楽図鑑:近況報告』さんのこのエントリでもこの点に触れられているのを見てあああそこで一瞬ギクッとさせられたのは自分だけじゃなかったんだと確信。そういや女性ボーカルとコーラス含めてバンド構成もそっくりだもんね。

…とまあ大きな答え合わせはこんなところ。

しかし3回観て改めて旧シリーズとの違いを実感するのは、今回はどのセリフにも相応の重みが込められている点。
そしてそれに気づくと途端にアスカ周辺の描写がどれもこれも深い意味を帯びていることがわかります。
アスカの尺は短いけど短いなりに練りに練ってあるんだなあと感心。
以下考察。

「日本人の信条は察しと思いやり」というミサトのセリフは九話でアスカに対してかけられた言葉だけれど、正直なところ九話の流れではただ単に大人が子供の純粋な疑問をはぐらかそうとしているだけ(同時に視聴者を煙に巻こうとしているだけ)にしか聞こえませんでした。
ところが『破』ではまさにこの「察しと思いやり」という言葉がアスカに確固たる影響を与えてます。

人形のようだった綾波の中に芽生えたばかりの恋心を「察し」、そんな彼女とシンジを「思いやって」アスカが参号機のテストパイロットに志願したのは明らか。

このエレベータのシーンでアスカは「これだから日本人は」といったセリフを呟いていますが、ここ以外に社会科見学でのやりとりでも綾波に対して「ごめん」と謝るシンジを見て同様の感想を抱いています。

旧シリーズを踏襲するならばここでの惣流さん流のキレ方は
「アンタ男ならもっとシャキッとしなさいよ!内罰的すぎんのよバカシンジ!!」
といった理不尽な攻撃でしょうが、式波さんの場合は異国育ちである自分と日本人の間にあるカルチャーギャップへの戸惑いが先行しているため「なんで日本人は悪くもないのに謝るの!?」となるんですね。
惣流さんを代表するセリフである「あんたバカぁ!?」は彼女の余裕のなさ、遣り場のない怒りが言わせていた感がありました。式波さんがこのセリフを多用しない、使っても文脈的におかしくない=彼女が本気で相手をバカだと思っている箇所に限定されているのも当然でしょう。
なぜなら式波さんには自分を保つ目的で他者を攻撃する必要もなければ、遣り場のない怒りを常に抱えているわけでもないから。

しかしここは産まれ育ったユーロの地から遠く離れた日本。これまでうまくやってこれたはずのことがなんだかうまくいかない。戸惑いが焦りを生んでいたのも間違いないでしょう。
そんな勝手の違う異国の地で指針となるのは、彼女の目指す理想像である「自立した頼れる女」ミサトの言葉。

また社会科見学をしぶるアスカを諭す「和を以て尊しと為す」という言葉も以後サハクィエル戦でのチームワークの効果を目の当たりにして肌で学んでいます。
参号機パイロットへの志願はこの「和」を重んじたが故とも言えるでしょう。

こうしてシンジや綾波たちとの交流の中で察しと思いやり、そして和の大切さをを体得したアスカはミサトに認められ、自らの身の置き所を自分自身で獲得したわけです。

式波さんの芯の強さは「自分で自分を認めている」からこそなのかも知れません。

式波さんが人形に話しかけるシーンで「アイツらともちがぁう♪」と呟いていますが、これは子供のころからエリートとして同年代の子供たちと一線をおいて育てられてきた自分、本来望むはずのない孤独を強いられてきた自分の境遇を正当化するための「エリートは孤独である」という子供っぽい自己弁護と読みとれます。
精神を病み、人形が我が子であるかのように振る舞う母親を見ていたことから、惣流さんが人形と会話する理由は「理解者・絶対的守護者の渇望からくる代償行為」でした。
たしかに式波さんの行為も決してポジティブとは言えない類のものではありますが、彼女にとっての人形はシンジのSDATや綾波のメガネと同じように母子をつなぐ「絆」としてより陽の方向に意味を変成されているのではないかと予想します。

自殺という最悪のかたちで実母を喪い、継母からのネグレクトを受けて育った惣流さんは他者から認めてもらった経験のないまま育ち、結果として自分で自分を認めてやることもできずエヴァに固執せざるを得なかった。
とても残念なことです。
『破』の時点では式波さんの肉親にも同様の経緯があったかどうかが描写されていないため確証は持てませんが、もし彼女にもネグレクトの過去があったならばそれを如何にして克服したのかがQの見どころですね。そしてもしある程度の克服が自分でなされていたのだとしたら、エレベータで綾波から「あなたにはエヴァに乗らない選択肢もある」という言葉をかけられた時点で彼女はエヴァのくびきから完全に脱却していたのかも知れません。…うん、だから参号機のことも受け入れられたし「気に入ったら赤く塗ってよね」と言えたのかも。

ってなことをサントラ聴きながら考えていたらバルディエル戦の曲『2EM29 E5』の不協和音コーラスが
ハー
レー
ルー
ヤー

だったことに気づいて背筋が凍った…(;´Д`)
ってCDのライナーにあるCho譜面見たらそのものズバリHallelujahって歌詞ふってあったよ!

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